2013年6月21日金曜日

最初の高塚古墳記録はソナカ(天の椎彦)の喪山


 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録24:26頁

 古墳時代は、卑弥呼の大冢からでなく、

 ソナカたちの渡来時に始まっていたことも間違いない。

 ソナカの別伝である『天の稚彦』の死を弔った話の、

 彼の遺体を収めた「喪山」という名は、

 彼の墓が山に似た形の高塚古墳だったことを

 明確に記録しているのである。

 その要点を『日本書紀』から抜き書きしてみよう。

 稚彦が高皇産霊尊に報告しないので、

 その様子を見に派遣した雉(キジ)を稚彦が射殺する。

 その矢は高皇産霊尊のところまで飛んでいく。

 高皇産霊尊がその矢を投げ返すと稚彦の胸をつらぬき、

 稚彦は即死する。

 稚彦の父は喪屋(もや)を建てて、殊(もがり)をした。

 稚彦の葦原中国の友人・

 味耜高彦根(アレクサンドロス)の神が弔問に訪れたが、

 彼は稚彦によく似ていたので家族は稚彦が生き返ったと喜ぶ。

 味耜高彦根は

 「死人と間違えるとは何たる無礼」と怒って喪屋を斬り倒す、

 喪屋は天から崩れ落ちて地上の山になった。

 いま美濃の国の藍見川の上流にある喪山がそれだという話である。

 この昔話では「喪山」は天の上から「美濃」に落ちたと書いてある。

 しかし若い卑弥呼の夫の墓が今の岐阜県の美濃にあるはずがない。

 またソナカは仲哀天皇であり彼は九州で熊襲と戦って死んだ。

 はっきり九州だと書いてあるし、

 熊襲が岐阜県にいるはずもないから

 この熊襲のいる美濃は、

 のちの女王国の旁国『弥奴(ミノ)』以外にはありえない。

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