2012年2月4日土曜日

「明の宮」と鹿児島の由来



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録06:18頁

 《「明の宮」と鹿児島の由来
 《「明の宮」と鹿児島の由来

 この「阿鹿児」は今の読み方では「アカゴ」と読めることにも注意がいる。

 「赤子」と書くと幼児のことになる。

 鹿児島神宮の古名は大隈正八幡で、

 「八幡」は幼児の時そこに着き、母は北九州へ移ったが

 彼は残って八幡様として尊崇を受けたのがその始まりなのだ。

 また応神大皇も母・神功皇后の胎内にいて三韓征伐に行ったので「胎中天皇」と呼ばれ、

 『三国史記』では前述のように「猪の子=郊彘」と渾名されている。

 応神天皇も八幡だから、

 どちらからみても鹿児島神宮の祭神は明らかに「赤子=アカゴ」である。

 こうみてくると、その宮の名は、もともと「アカゴの宮」と呼ばれていたことになる。

 それに「阿鹿児の宮」と当て字したものを、

 後の人が「アカルの宮」と読み、

 さらに後の人がそれに「明の宮」と当て字したとみても、

 順序は逆だが答えは同じになる。

 またこの「阿鹿児」の「阿」を敬称とみて取り去り、

 国名として「鹿児之国」と書いたものを、

 「カゴシマ」と読んだものがあり、

 後の人がそれに「鹿児島」と当て字したことから

 この地名が定着したとみても間違いではない。

 古代には隼人町の方が都で、

 今の鹿児島市は淋びれた漁村にすぎなかったが、

 ある嵐のあとに御神体が流れついていたので神社を建てたのが

 「鹿児島神社(神宮とは別)」で、

 その門前町が栄えて都市化が進んだのである。


 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録06:9頁

 謎は深まる「父と子の名替え?」
 謎は深まる「父と子の名替え?」

 また応神天皇の名替えの相手「戦さの君」は、「彦五十狭芹彦」も

 父の「位宮=五十狭茅=垂仁天皇」も、

 九州にいて北陸などとは何の関係もない人たちである。

 この二人のうちで応神天皇の名替えの相手の

 「戦さの君」として可能牲があるのは、

 父の垂仁天皇しかないように見えるが、

 念のために大神の名と比べてみよう。

 五十狭茅と伊奢沙和気・去来紗別とをみると、

 「五十狭=戦さ」は「伊奢=イッシャ」と同じで、

 「去来=イザ」は「伊奢」をイザと読み損ったものを、

 さらに当て字を変えたものだとわかる。

 だから残る「茅と沙と紗」が同じものかどうか調べる必要がある。

 「茅」はすでに<キ>を<チ>と発音する沖縄語だということまでわかっているから、

 「チ」であることは間違いない。

 沖縄語のチと「沙と紗」を比較すると、

 <チ>は<サ>には変わらないが、<シ>には変わるから、

 これは<サ>ではなく「ショウ」と読まなければならない。

 「イッサショウ」は「イツサチ王」への沖縄語の当て字とみた場合にだけ、

 ぴったり一致する。

 だから名替えの相手はやはり五十狭茅だった。

 だが父の名乗りを子が受継ぐのは当り前で何も

 「名替え」などと呼んで、

 わざわざ記録に残す必要はない。

 そこにはさらなる秘密が隠されているはずである。

 謎はかえって深くなってしまった。

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