2012年2月3日金曜日

「タギシ」が解くもう一つの謎



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録06:19頁

 《アカイヤだった「明の宮」
 《アカイヤだった「明の宮」

 この「明=阿鹿児」は、もう一つ重大なことを救えてくれる。

 「赤」といえば五彩圏連邦の南を意味するから、

 「赤ル」は「赤国=赤盧=アカロ」の

 沖縄発音「アカル」にぴったり一致していることである。

 これはギリシャですでに「アカイヤ」がその位置を占めていた。

 五彩圏連邦を日本列島からアジア全域に移入したギリシャ系の人たちは、

 間違いなく南九州を「アカイヤ」と呼んでいたのである。

 しかし南九州語が言葉を短く短縮して発音する特徴をもつことを計算に入れると、

 アカイヤは「アカイまたはアカヤ」になる。

 明の宮の「明」を標準語では「アカリ」と発音するが、

 南九州語では「アカイ」と発音する。

 だから明宮を「アカイ宮」と呼んだか、

 または全体が「アカイヤ」に対する

 当て字かのどちらかなのである。

 大隈半島中部の都市「鹿屋」は先にみた「科野」に当たるが、

 この二つに「阿」を被せると

 やはり「アカヤ」になるから、そこが「赤の都」だった名残りとみると、

 語尾の<ヤ>は<ラ><マ><ナ>にも変わるから、<カラ>と呼んだ人々もいた。

 それに当てた当て字が「姶良」であり「韓国」だから、

 今も隼人町を南端の中心に

 広大な姶良都が残り、またそれを一望のもとに見下ろす霧島山塊の最高峰が

 「韓国見岳」と呼ばれているのである。

 明の宮はここにしかないのだ。


 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録06:9頁

 謎は深まる「父と子の名替え?」
 謎は深まる「父と子の名替え?」

 また応神天皇の名替えの相手「戦さの君」は、「彦五十狭芹彦」も

 父の「位宮=五十狭茅=垂仁天皇」も、

 九州にいて北陸などとは何の関係もない人たちである。

 この二人のうちで応神天皇の名替えの相手の

 「戦さの君」として可能牲があるのは、

 父の垂仁天皇しかないように見えるが、

 念のために大神の名と比べてみよう。

 五十狭茅と伊奢沙和気・去来紗別とをみると、

 「五十狭=戦さ」は「伊奢=イッシャ」と同じで、

 「去来=イザ」は「伊奢」をイザと読み損ったものを、

 さらに当て字を変えたものだとわかる。

 だから残る「茅と沙と紗」が同じものかどうか調べる必要がある。

 「茅」はすでに<キ>を<チ>と発音する沖縄語だということまでわかっているから、

 「チ」であることは間違いない。

 沖縄語のチと「沙と紗」を比較すると、

 <チ>は<サ>には変わらないが、<シ>には変わるから、

 これは<サ>ではなく「ショウ」と読まなければならない。

 「イッサショウ」は「イツサチ王」への沖縄語の当て字とみた場合にだけ、

 ぴったり一致する。

 だから名替えの相手はやはり五十狭茅だった。

 だが父の名乗りを子が受継ぐのは当り前で何も

 「名替え」などと呼んで、

 わざわざ記録に残す必要はない。

 そこにはさらなる秘密が隠されているはずである。

 謎はかえって深くなってしまった。

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