2012年2月1日水曜日

応神天皇は3世紀に越前まで行ったか?



『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録06:8頁

応神天皇は3世紀に越前まで行ったか?
応神天皇は3世紀に越前まで行ったか?

これで武内宿祢の行動半径はわかった。

次はいよいよ応神天皇の名替えだが、

なぜこんなに長く証拠固めが必要だったか?というと、

『古事記』には武内宿弥と幼いころの応神天皇とが

「禊=ミソギ=清めの水浴び」をするために

「淡海、若狭国を経歴した時、高志前之角鹿に於て、仮宮を造りいます。

その地に伊奢沙和気大神之命がいまして、夜、夢に現われて、

御子の御名とわが名とを替えて欲しいと言った」と書いてある。

この地名をみると、

いかにも「淡海=近江。若狭=福井。高志前=越前。角鹿=敦賀」と

いうふうに見えるが、

宿弥の行動半径が南九州を出ない事実を知ると、

疑わしいだけでなく、

「倭の五王」の記録でも5世紀末にやっと奈良県の高市に勢力が届いた程度で、

壹與時代の3世紀に、後世の若狭や越前が天皇家の行動範囲に入るはすがない。

それに幾ら神聖な行事でも「清めの水浴び」のために、

南九州から福井県まででかけたとは考えられない。

これまでも見てきた通り、

地名は倭の五王政権の拡大と移動につれて次第に四国から本州に

移動し拡大して分布して行ったものだから、

同じ文字の地名だから、

それが現代の地名の土地を指していると思うのは、

明らかに間違いなのである。

これは古代史の謎を解く上では、ごく初歩の常識である。

この高志前はどうみても今の北陸地方ではありえない。


『参考』
ウワイト(倭人)大学院講義録 

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ウワイト(倭人):大学講義録
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