2012年2月4日土曜日

鹿児島応神朝の完全証明



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録06:17頁

 《鹿児島応神朝の完全証明
 《鹿児島応神朝の完全証明

 この「軽島の明の宮」というのは

 『古事記』の応神巻の最初に書いてある地名で、

 従来はこれを奈良県の地名ときめてかかり、

 橿原市に大軽町というのがあるので、

 その辺りだろうとしてきた。

 しかし倭王・武がやっと奈良県武市郡を領地にしたのが478年ころなのに、

 その5代前の応神が橿原に都をもっていたというのは、

 空想にしても余りにも不合理すぎる。

 前にもお話ししたように倭王・武の説明した代々の倭王の征服戦は

 南九州を出発点にして、

 視点を九州東部に置いて話しを進めている。

 だからその出発点にあった応神の都は南九州以外にはありえない。

 では南九州に「軽島の明の宮」に合う地名があるであろうか?…。

 今の中国語では「児」の字は「ル」と発音する。

 もちろんそれは清=チン朝以後のペキン語で、

 古代には中国語を代表する標準語ではなかったが、

 それは方言としては存在していた。

 ことに大清帝国をつくった金(チン)の人たちは、

 沖縄(ウチナ=大チン国)から北上したチン人である。

 当時の沖縄出身の南九州人は当然「児」を「ル」と読んだのだ。

 だから「鹿児島」は「カルシマ」への当て字だったのである。

 「軽島」はその発音に対する別の当て字に過ぎない。

 「明」の字も「アカル」と読める。

 これは「ア・カル」と分割してみると「阿鹿児」になる。

 頭の「阿」は皇居に対する敬称だとみて間違いではない。


 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録06:9頁

 謎は深まる「父と子の名替え?」
 謎は深まる「父と子の名替え?」

 また応神天皇の名替えの相手「戦さの君」は、「彦五十狭芹彦」も

 父の「位宮=五十狭茅=垂仁天皇」も、

 九州にいて北陸などとは何の関係もない人たちである。

 この二人のうちで応神天皇の名替えの相手の

 「戦さの君」として可能牲があるのは、

 父の垂仁天皇しかないように見えるが、

 念のために大神の名と比べてみよう。

 五十狭茅と伊奢沙和気・去来紗別とをみると、

 「五十狭=戦さ」は「伊奢=イッシャ」と同じで、

 「去来=イザ」は「伊奢」をイザと読み損ったものを、

 さらに当て字を変えたものだとわかる。

 だから残る「茅と沙と紗」が同じものかどうか調べる必要がある。

 「茅」はすでに<キ>を<チ>と発音する沖縄語だということまでわかっているから、

 「チ」であることは間違いない。

 沖縄語のチと「沙と紗」を比較すると、

 <チ>は<サ>には変わらないが、<シ>には変わるから、

 これは<サ>ではなく「ショウ」と読まなければならない。

 「イッサショウ」は「イツサチ王」への沖縄語の当て字とみた場合にだけ、

 ぴったり一致する。

 だから名替えの相手はやはり五十狭茅だった。

 だが父の名乗りを子が受継ぐのは当り前で何も

 「名替え」などと呼んで、

 わざわざ記録に残す必要はない。

 そこにはさらなる秘密が隠されているはずである。

 謎はかえって深くなってしまった。

 『My ブログ』
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
 古代史の画像
 ネット歴史塾
 古代史ブログ講座
 ネット歴史塾
 ひねもす徒然なるままに    
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」
 
 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 
        
 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

0 件のコメント:

コメントを投稿