2012年2月3日金曜日

「垂仁=熊襲」の考証の仕方



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録06:11頁

 《「垂仁=熊襲」の考証の仕方
 《「垂仁=熊襲」の考証の仕方

 熊襲は隼人町の拍子橋で殺されたという伝承が残っているが、

 隼人町は当時の皇居の跡である鹿児島神宮の所在地だ。

 また日本武尊とは「日=クマ=熊」「本=モト=素」=「クマソ=熊襲」で、

 「武」は勇士を意味すると書いてあるから「武将=戦さの君」とすれば、

 それを倒して日本武尊と名乗ったのは、

 これも名乗りが別人に移った「名替え」である。

 また神宮の付近に高千穂の宮跡があるが「高千穂」は

 「タカチ王=高津王=武の王」であり「武内王」でもある。

 隼人町に近い大隈町には有名な

 「大人(おおびと)・弥五郎祭り」があって古代に武内宿弥が討たれた記念だという。

 これは、こうした名詞と地域と事件内容を総合すると、

 ただ一度だけ現実にあった

 「垂仁を日本武尊が討った事件」が浮き彫りになってくる。

  垂仁天皇がもとの「ヤマトタケル」だつたことには、動かぬ証拠がある。

 『古事記』では「倭建命」と書いてあるが、

 これは<E> 音を他の母音で発音する

 沖縄~大隈語では「イケメ=イキマ=イチマ」に変わる。

 これに当てたのが「活目・伊支馬」で少しのズレもない。

 この名乗りの継承者を応神天皇とみたくなるが、

 それでは倭王・讃が最初に宋に

 使者を派遣したのが421年で五世紀だから、

 その父である応神が、

 百数十年前の3世紀に垂仁天皇を殺すことなどありえない。

 これははっきり別人だと否定できる。


 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録06:9頁

 謎は深まる「父と子の名替え?」
 謎は深まる「父と子の名替え?」

 また応神天皇の名替えの相手「戦さの君」は、「彦五十狭芹彦」も

 父の「位宮=五十狭茅=垂仁天皇」も、

 九州にいて北陸などとは何の関係もない人たちである。

 この二人のうちで応神天皇の名替えの相手の

 「戦さの君」として可能牲があるのは、

 父の垂仁天皇しかないように見えるが、

 念のために大神の名と比べてみよう。

 五十狭茅と伊奢沙和気・去来紗別とをみると、

 「五十狭=戦さ」は「伊奢=イッシャ」と同じで、

 「去来=イザ」は「伊奢」をイザと読み損ったものを、

 さらに当て字を変えたものだとわかる。

 だから残る「茅と沙と紗」が同じものかどうか調べる必要がある。

 「茅」はすでに<キ>を<チ>と発音する沖縄語だということまでわかっているから、

 「チ」であることは間違いない。

 沖縄語のチと「沙と紗」を比較すると、

 <チ>は<サ>には変わらないが、<シ>には変わるから、

 これは<サ>ではなく「ショウ」と読まなければならない。

 「イッサショウ」は「イツサチ王」への沖縄語の当て字とみた場合にだけ、

 ぴったり一致する。

 だから名替えの相手はやはり五十狭茅だった。

 だが父の名乗りを子が受継ぐのは当り前で何も

 「名替え」などと呼んで、

 わざわざ記録に残す必要はない。

 そこにはさらなる秘密が隠されているはずである。

 謎はかえって深くなってしまった。

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