2012年2月3日金曜日
「名替え」=邪馬壹国政権の復活
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録06:13頁
《「名替え」=邪馬壹国政権の復活》
《「名替え」=邪馬壹国政権の復活》
これは『誰が巨大古填を造ったのか』の207頁に書いてあるので省略するが、
「白」はいうまでもなく後の新羅であって、位宮・壹與政権を指し、
「猪=郊彘=コウテイ=皇帝」に敗北したということにほかならない。
これが『魏書倭人章』では不明の、壹與即位以後の「邪馬壹国の歴史」である。
位宮が日本武尊に暗殺されたために、邪馬壹国政権は隼人町から西へ移った。
これが新羅の歴史に書かれている知覧=鶏林時代なのである。
高千穂の宮は日本武尊らに占領されて、卑弥呼系政権が再建されていた。
それが「武王の宮=タケチオーノミヤ」と呼ばれたのだ。
そして何代かの「戦さの君=伊奢沙和気」が君臨していたが、
「シロの皇帝」にまた奪い返されて、
「皇帝=ホンダイ=韓国読み」が高千穂の宮=鹿児島神宮に君臨することになった。
これが「ホンダワケ=品陀和気の命・コンダの天皇=誉田別天皇」なのであって、
大神も、皇子も、その名はどちらも代々世襲される複数人の「名乗り」に過ぎす、
従来誤解していたような「一人物の個人名」ではない。
だから壹與が種子ガ島から連れてきた「八幡=本部別」の子孫ではあっても当人ではない。
これが神功皇后が夫・仲哀天皇の死後、はるかに年月が経過してから
応神天皇を産んだという謎の真相でもある。
複数の天皇を一人とみたために説明に困った者の愚作だったのだ。
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録06:9頁
謎は深まる「父と子の名替え?」
謎は深まる「父と子の名替え?」
また応神天皇の名替えの相手「戦さの君」は、「彦五十狭芹彦」も
父の「位宮=五十狭茅=垂仁天皇」も、
九州にいて北陸などとは何の関係もない人たちである。
この二人のうちで応神天皇の名替えの相手の
「戦さの君」として可能牲があるのは、
父の垂仁天皇しかないように見えるが、
念のために大神の名と比べてみよう。
五十狭茅と伊奢沙和気・去来紗別とをみると、
「五十狭=戦さ」は「伊奢=イッシャ」と同じで、
「去来=イザ」は「伊奢」をイザと読み損ったものを、
さらに当て字を変えたものだとわかる。
だから残る「茅と沙と紗」が同じものかどうか調べる必要がある。
「茅」はすでに<キ>を<チ>と発音する沖縄語だということまでわかっているから、
「チ」であることは間違いない。
沖縄語のチと「沙と紗」を比較すると、
<チ>は<サ>には変わらないが、<シ>には変わるから、
これは<サ>ではなく「ショウ」と読まなければならない。
「イッサショウ」は「イツサチ王」への沖縄語の当て字とみた場合にだけ、
ぴったり一致する。
だから名替えの相手はやはり五十狭茅だった。
だが父の名乗りを子が受継ぐのは当り前で何も
「名替え」などと呼んで、
わざわざ記録に残す必要はない。
そこにはさらなる秘密が隠されているはずである。
謎はかえって深くなってしまった。
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