2012年2月9日木曜日

青銅武器圏と銅鐸圏が立証するもの



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録06:23~24頁

 《青銅武器圏と銅鐸圏が立証するもの
 《青銅武器圏と銅鐸圏が立証するもの


 「地図」

 『古代史発掘5・大陸文化と青銅器』(講談社-昭和49年)127ページのコピー

     「原田大六『邪馬台国論争』1969年311頁第80図により作成」

  「青銅武器」分布圏 

  「銅鐸」分布圏

 『古代史発掘5・大陸文化と青銅器』(講談社-昭和49年〉127頁のコピー

 「原田大六『邪馬台国論争』1969年311ページ第80図により作成」という説明がある。

 一見してわかるように

 「伊都国中心の青銅武器圏」と、

 「大阪中心の銅鐸圏」とに分かれている。

 『魏書倭人章』の対馬から伊都国までが「倭人圏」であることはいうまでもないし、

 「東に海を千余里渡った国も皆倭種」という記事と四国の「青銅武器圏」も

 完全に一致しているから、

 その東の近畿が、それと対立する「銅鐸圏」だったこも説明はいらない。

 青銅武器は本来は武器ではあったが墓に副葬されているので「死者を守る」という

 信仰具に変化していたことがわかるし、

 現在も鍾の仲間が多くの宗教儀式に使われる重要な

 「日常祭具」であることで、銅鐸もまた信仰上の器具であったことは疑いない。

 だが『魏書倭人章』は全く銅鐸を知らない。

 銅鐸は毎日の礼拝に欠かせぬ日常祭具であり、

 また儀式の荘厳と文化の誇示用の宝器でもあるから、

 帯方郡使のような重要な使節の来朝に際しては、

 殊更に見せびらかす性質のものである。

 しかもその帯方郡使は野草の種類から人々の仕草や習慣まで詳細に観察して記録しているのに、

 銅鐸の記事は一字もない。

 宗教は常に他の宗教を敵視する。

 それは古代ほど激しく互いに相争った。

 「倭人圏」は絶対に「銅鐸人圏」ではない。

 この一事だけでも近畿圏が卑弥呼らの倭人圏ではなかったことが明らかにわかる。

 「畿内説」の誤りを完全に証明しているのである。

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