2012年2月1日水曜日
「入彦」は「爾支」
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録06:3頁
「入彦」は「爾支」
「入彦」は「爾支」
垂仁天皇もこれとごく近い名乗りをもっている。
「五十狭茅」である。
これと『五十狭芹』を比較すると、
「芹=キン」と「茅=チ」だけの差である。
これは沖縄語が、標準語の「キ」を「チ」と発音することを考えると、
沖縄人だったことの明りょうな
垂仁天皇=位宮が<キ>を<チ>と発音していたことは当然で、
この名乗りもやはり「戦さ君」だったことがわかる。
これを現在ヨーロツパで使われている
「フィン・ウゴル語」で「連邦」の意味をもっている
「イチマ」と重ねてみると、
垂仁天皇のフルネーム「活目入彦五十狭茅=イチマ・入彦・イサチ」
とは「連邦・入彦・将軍」という意味の名乗りだったことが完全に理解できる。
ではこの「入彦」とは何か?…。
彦は「卑狗」だから、残る「入」だけが問題である。
彼は沖縄人だから「イリ」とは「西」のことである。
西は伊都国のある佐賀あたりでは
「ニシ」と発音が変わっていたとみえて、
『魏書倭人章』では伊都国の筆頭官名を「爾支=ニシ」と書いている。
伊都国は地理的に見て連邦の「西の首都」だったことがわかる。
「入彦」とは『魏書倭人章』の「爾支・卑狗」で、
「西の支配者」という意味だったのである。
この「西」は「白虎の国」だから別名が「白=シロ=斯盧=新羅」と変化した。
壹與がその新羅の初代・赫居世王だというのは、どこから見ても性格な記録なのである。
『参考』
ウワイト(倭人)大学院講義録
『My ブログ』
ウワイト(倭人):大学講義録
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