2012年2月6日月曜日
目標を達成した本講第1講
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録06:20頁
《目標を達成した本講第1講》
《目標を達成した本講第1講》
『魏書倭人章』の開巻第一に現われて、
7世紀に「大化改新」と呼ばれる政権喪失まで、
国名として実在した『倭』は、
『魏書倭人章』では卑弥呼の死と壹與の即位による
「邪馬壹国」の誕生までで終っている。
次の『晋書』はその後の壹與の外交などを書いてはいるが
肝腎の晋自体が短命に終わっている。
以後の倭国の記事も尻切れトンボのままである。
それから『宋書倭国伝』の、5世紀はじめ421年の倭王・讃から
478年の倭王・武の上表記事に『倭国』として登場するまでのあいだ、
『倭』は一体どうなっていたのか?…。
また五王は卑弥呼系なのか、違うのか?…。
それらとの閑係がどういうものだったのか全く不明のままになっていた。
だが、今回でその間の歴史が一通り明瞭になったのである。
『倭』を教材に選んで
「言語復原史学」の手法と着眼点をお教えすることをお約束した
本講座の第1講は、これでその目標点まで充分到達できたことになる。
私たちが使う史料は、もともと政治史だから、政権の推移が主題になることは仕方がない。
またそれを軸にしなければ、国名や名乗りといった言語資料は歴史を物語らない。
最大の政治史である五彩圏連邦の実在の証明も、
「明の宮」が「アカイヤ」を
語源とするという人類史上まれにみる大発見も、
それなしでは絶対に生まれてはこないのである。
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録06:9頁
謎は深まる「父と子の名替え?」
謎は深まる「父と子の名替え?」
また応神天皇の名替えの相手「戦さの君」は、「彦五十狭芹彦」も
父の「位宮=五十狭茅=垂仁天皇」も、
九州にいて北陸などとは何の関係もない人たちである。
この二人のうちで応神天皇の名替えの相手の
「戦さの君」として可能牲があるのは、
父の垂仁天皇しかないように見えるが、
念のために大神の名と比べてみよう。
五十狭茅と伊奢沙和気・去来紗別とをみると、
「五十狭=戦さ」は「伊奢=イッシャ」と同じで、
「去来=イザ」は「伊奢」をイザと読み損ったものを、
さらに当て字を変えたものだとわかる。
だから残る「茅と沙と紗」が同じものかどうか調べる必要がある。
「茅」はすでに<キ>を<チ>と発音する沖縄語だということまでわかっているから、
「チ」であることは間違いない。
沖縄語のチと「沙と紗」を比較すると、
<チ>は<サ>には変わらないが、<シ>には変わるから、
これは<サ>ではなく「ショウ」と読まなければならない。
「イッサショウ」は「イツサチ王」への沖縄語の当て字とみた場合にだけ、
ぴったり一致する。
だから名替えの相手はやはり五十狭茅だった。
だが父の名乗りを子が受継ぐのは当り前で何も
「名替え」などと呼んで、
わざわざ記録に残す必要はない。
そこにはさらなる秘密が隠されているはずである。
謎はかえって深くなってしまった。
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