2013年11月28日木曜日
壹與と位宮の悲劇=クマソ退治の真相
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録30:13頁
なぜなら日本武尊の父は景行天皇で、
その名乗りの大足(タイシ)彦忍代(オジロ)別は、
卑弥呼が魏の帯方郡に狗奴国男王との危急を告げる使者として派遣した
倭の載斯(たいし)烏越(オジロ)=太子・オジロその人以外にないから、
すべてが同時に同じ地域にいた人々たちであり、
その全ての地位と利害の対立が完全に一致するから、
無関係な別の事件だとは考えられない。
ただ壹與は女性で、
景行天皇皇子の、身長一丈、鼎(かなえ)を軽々と持ち上げた
小碓(うす)の尊とは明かに別人である。
「景行紀」27年12月の記事に小確の専の熊襲梟師(たける)暗殺が書かれているが、
その前にも12年12月に日向の隣国・襲の国に熊襲梟師がいて
市(イチ)乾鹿文と市鹿文という二人の娘があり。
景行がその姉妹にプレゼントを贈って「陽(偽り)寵(恵み)」騙(だま)すと、
姉は景行の部下を連れて家に帰って父に濃い酒を炊ませ、
弓の弦(つる)を切って、同行した兵士に父を斬らせた。
すると景行はその不孝を咎(とが)めて姉を殺し、妹を火の国造にした。
というもう一つの熊襲退治がある。
この二つを比較してみると、
小確の尊の話は脚色が多く、市乾鹿文のほうが現実的である。
その名も「市=イチ]がついていて壹與である可能性が高い。
また現実に壹與は、未亡人の神功皇后として行動した記録を残したのだから、
火の国造=日本国王になったことも間違いない。
壹與と位宮の関係は、
この市乾鹿文事件の解明で、さらに詳細化するのである。
《壹與と位宮の悲劇=クマソ退治の真相》
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