2013年11月15日金曜日

次第に高句麗支配が進んだ史実がわかる


 『Yahoo!天気・災害

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録29:21頁

 それでは天皇名を検証して、その支配関係を詳細に確認してみよう。

 神武天皇の磐余(ハヤ)は扶余(ハヤ)。

 それをイワレと発音を変えたのは隼人の石体神社の石割(いわれ)説話のため。

 磐余・扶余は巴利国(ハイマ)が語源で、ハイ・ハユ・ハヤと発音された

 「高句麗と百済(百=ホ=日で日子(ホネ)の日(ホ))は扶余(ハヤ)の子孫だ」と

 『三国史記』が語るのは、このことである。

 綏靖(すいぜい)の神渟(てい)はカンテイ・ジンティ

 どちらも準胝(てい)観音(Candima 月・仏母)。

 名川耳はナンセンミンで難升米(ナンシヤンミ)。

 位宮=神武の子ではないが、位宮死後の天皇ではある。

 安寧の磯(いそ)は沖縄語イス、これは南九州の伊勢、当て字=伊佐。

 懿徳(いとく)の耜(シ)は斯馬(シ国)、友は投鳥(ト国)。

 孝照の香(カウ)=高は、根と並立しているからまだ南の海の

 高(沖縄高離(カウリ)島・奄美宝島など)で、北鮮支配初期。

 孝安でもまだ「足(タル)」と、

 タルタロスと呼んでいたことを記録する時代だが、

 孝霊以後は明瞭に「根」と「子」を記入して、

 扶余(フヨ)まで支配していたことを主張している。

 こうみてくるとこれらの名乗りは史実に忠実で、

 とても『記・紀』編者が出鱈目(でたらめ)に創作し

 水増しした架空の諡号(おくりな)とは思えない。

 淡海(あふみ)の三船がこの4天皇と大化改新時の孝徳天皇の漢風諡号に、

 特に「孝=コウ=高」の字を使ったのは、

 史実をよく知る彼が、祖先への「孝」の意味をこめて、

 高句麗支配の史実を強く暗示して教えたのだと悟る必要がある。

 次第に高句麗支配が進んだ史実がわかる

 次第に高句麗支配が進んだ史実がわかる

 『My ブログ』
 スメル8千年 古代メソポタミア
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
 古代史の画像
 ネット歴史塾
 古代史ブログ講座
 ネット歴史塾
 ひねもす徒然なるままに    
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

 《装飾古墳
 「装飾古墳
 《考古学の最新発見
 「考古学の最新発見

0 件のコメント:

コメントを投稿