2014年6月13日金曜日

阿曇・安曇(34)バビロンの王ハンムラビ


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

 阿曇・安曇(34)バビロンの王ハンムラビ

 超古代にアラビア海から太平洋へ航路を開いた阿曇族

 ―「船」を家とした人々の来歴―

 出典:「古代のメソポタミア」マイケル・ローフ
   :朝倉書店
    交易と交戦:122頁

 前2千年紀初めの傑出した人物といえば、

 前1792 年から1750 年にかけて

 バビロンを支配したハンムラビ王であった。

 辛抱強いが大望のある、用心深いが大胆な彼は、

 一時的ではあるがメソボタミアの歴史を変えるような一帝国を建てた。

 バビロンは政治、文化、そして宗教の中心となった。

 ハンムラビの治世の年号(年名)によると、

 彼は前1787 年にウルクとイシンを占領し、

 前1784 年にラビクムとマルギウムまで遠征している。

 また前1783 年の契約書によれば、

 その当時ハンムラビがシャムシ・アダドの家臣であったかもしれない。

 (彼の治世間の年号によると)次の20 年間、

 ハンムラビは神殿と運河の建設に適進しているが、

 治世第29 年に

 エラム、スバルトウ、グティウム、エシュヌンナ

 そしてマルギウムの同盟軍をうち破ったと主張している。

 次の年、前1763 年、

 彼はマリとエシュヌンナの援助をうけ、

 リム・シン1 世の長い治世を終わらせ、ラルサを征服した。

 2 年後ハンムラビはマリを破リ、

 そして前1757 年にマリの都市を破壊した。

 前1755 年にはハンムラビは都市のまわりに

 水を迂回させることでエシュヌンナを占領した。

 エシュヌンナは、彼の最後のメソポタミアでの対抗相手だった。

 ハンムラビは法典の序文に、

 神の名と彼を支持した国々の名を列挙している。

 それには、西のマリとトウットウル、

 ティグリス川ぞいのアッシュールと二ネヴエまでの都市、

 そして南に下ってウル、エリドウ、ギルスなどの都市があがっている。

 ハンムラビのラルサ統治を扱う150 あまリの書簡は、

 彼が獲得した国の日常管理に大きな関心をもち、

 ほとんど都市に権限を委任しなかった様子を伝えている。

 ハンムラビといえば、あの法典がもっとも有名である。

 ハンムラビ法典に非常に類似した形態の法典は早く、

 ウルのシュルギ、イシンのリビト・イシュタル、

 エシュヌンナのダドウシャなどによっても発布されていた。

 ハンムラビは法典の目的を

 「全土に正義をいきわたらせるため,悪事を撲滅するため,

 強者が弱者をしいたげないために」と定義している。

 彼はさらに判決を求める人々 に、法典を調べて、

 その事例に適切な法的決定を下すように勧告している。

 しかしハンムラビのものと推定される

 石碑の法律文書中のまれにみられる言及を除いては、

 現実に法典が不正を正すために使われたことを

 示唆する証拠はほとんどない。

 この法典には282 の条文があリ

 商業法、家族法、財産法、奴隷法、

 そして価格と賃金の料金など多くの問題を扱っているが、

 法典としては完壁でも包括的でもない。

 ハンムラビの法律は、

 古バビロニア社会の一つの理想的な考え方を提示している。

 王が最上位にあリ、

 王は彼の王国のすべてにわたって介入することができ、

 また実行した、

 彼の下にはアウィルム(“人”を意味するアッカド語)

 すなわち自由民、ムシュケヌム

 (彼らの厳密な地位ははっきりしないが、ある意味で国の召使)、

 そしてワラドウムすなわち奴隷、の三つの社会的階級があった、

 とはいえ奴隷は、彼ら自身の権利で財産を所有することができ、

 しばしば彼らの負債を清算するために、

 彼ら自身または子供を奴隷として売リこまなければならなかった

 アウィルム階級の一部のものよリは、

 よリよい生活を送っていたようにみえる。

 貸しつけの標準利子は、オオムギに対して33 % 、

 また銀に対して20 %であった。

 アウィルムは国に対する責任をもっておリ、

 税を払わなければならず、

 また国王軍で軍の兵役も果たしていた。

 アウィルムが死ぬと、

 彼の財産は息子たちの間で分けられ、

 土地はどんどん小さくなっていった。

 神殿、宮殿と民間市民との間の経済面での正確な力関係は

 いままでのところえられる情報源からは判断が難しい。

 しかし一般的にいうと、古バビロニアの都市では、

 宮殿がより重要な役割を演じていた。

 王は神殿を押さえていたが、

 その力は、王が都市神の位の高い神官であったからではなく、

 王が非宗教面で力をつけてきたからである。

 このことは、

 王神によって自己の権力が支えられていると主張しながらも

 実際には非宗教的な肩書きを用いていたことにも表れてる。

 イシン=ラルサと古バビロニア時代に

 個人間の契約、貸つけ、財産販売の数が

 増加したことによって示されるように

 宮殿の権力拡大につれて

 農業、産業、商業における個人に活動範囲が広がった。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部


 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

 

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