2014年6月10日火曜日

阿曇・安曇(31)バビロンの発掘


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

 阿曇・安曇(31)バビロンの発掘

 超古代にアラビア海から太平洋へ航路を開いた阿曇族

 ―「船」を家とした人々の来歴―

 出典:メソポタミア文明
   :ジャン・ポッテロ/マリ=ジョゼフ・ステーヴ著
   : 矢島文失監「創元社」

 石版や粘土版だけではない。

 楔のしるしはペルセポリスの王宮の跡や、

 王の墓が掘られた断崖の岩盤にも刻まれていた。

 第4章 歴史はシュメルに始まった

 「バビロンの発掘」

 ところでメソポタミアの南部には、

 シュメルの遺跡だけが眠っていたわけではない。

 前2000年頃にシュメルの国家が姿を消したあとも、

 この地にはいくつかの国家が生まれ、

 バビロンの都を中心に繁栄を誇ってきた。

 そのバビロンがついに発掘される日がやってきた。

 実を言うと、

 バビロンの遺跡は「発見」されたわけではなかった。

 現在イシュタル門として知られる大門と

 そこに至る大通りに沿った高い壁が、

 19世紀に入ってからも地中から、

 頭を出していたからである。

 この壁にローベルト・コルデヴァイという

 ドイツの学者が興味を持った。

 コルデヴァイは1899 年から1917 年にかけて

 大がかりな発掘を行ない、

 広大なバビロンの遺跡を太陽のもとにひきずりだした。

 その結果、

 街は 50 近くの監視塔を持つ2重の壁に囲まれ、

 内側には大小あわせて1000 以上の神殿があったことがわかった。

 その中心となるのはバビロニアの主神マルドゥクを

 祀ったエ・サギラ神殿で、

 換形文字の文書などから、

 そこにはエ・テメン.アン・キ(天と地の境の家)と呼ばれる

 7 階だての聖塔がそびえていたこともわかった。

 聖書で有名な「バベルの塔」である。

 「写真」ネブカドネサル2 世の時代のマルドゥク神殿とバベルの塔

     バビロニアの主神マルドゥクを祀った神殿と、

     バべルの塔の復元模型。

     塔は7 階だてで、高さは90m もあった。

     だが残念なことに、現在では基礎の部分しか残っていない。

 「写真」ローベルト・コルデヴァイの肖像

     コルデヴァイがバビロンを発掘したあと、

     考古学者たちは、遺跡を測定して街の地図を作り、

     主要な建造物の復元模型を作った。 

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 

  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部


 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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