2014年7月8日火曜日

阿曇・安曇(65)南方(みなみかた)


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

 阿曇・安曇(65)南方(みなみかた)

 課題:龍の登場しない龍宮伝説の真相
    ―海洋安曇族の主祭神「海童(わたつみ)」の故郷―

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 出典:平凡社:歴史地名大系
       :370頁

 南方宮崎庄の地域区分。

 弘長元年(1261)二月日の奈古神社領注文写(奈古神社文書)に

 南方のかむ社領総計二四町余の社田が書上げられているが、

 地目に霧島田・砥園田などが含まれており、

 あるいは後世の内容を含むかもしれない。

 同年一二月一五日、奈古大宮司職は

 海清久から清景に相伝されている「海清久譲状写」同文書)。

 文保元年(1341)一一月一七日、

 藤原某は宮崎庄南方地頭代に対し、

 奈古社大宮司重清が伊東四郎の下人の本鳥(髻)を切った

 罪科によって大宮司職を改易され、

 頼清に大宮司職を補任したことを報告している

 (「藤原某書下写」同文書)。

 暦応四年(1341)一一月二二日、

 沙弥某は南方奈古社修理用に馬一匹を施入している

 (「沙弥某奉加状写」同文書)。

 文安二年(1445)南方の笠本村内立聞田の合せて二町二段が

 奈古社の祝とみられる和田のいち太郎に売却されている

 (九月一五日「某証状」・一二月一五日「裾範証状」同文書)。

 祐範は伊東氏系の人物とみられ、

 伊東氏と奈古社の親近な関係がうかがえる。

 文明九年(1477)九月一四日、

 南方の江良と北方の原之薗との間で奈古社祭礼役をめぐり争いとなり、

 両者が年替えで二番と四番を交替して勤めることに決している

 (「祐武・俊立連署定書写」同文書)。

 両者は伊東氏の奉行人と思われ、

 奈古社祭礼の相論裁許が伊東氏の元で裁許されるように、

 南方は伊東氏の直轄地となっていた。

 同一五年一二月二三日の某宛行状(同文書)は

 南方立聞田二段と笠本の屋敷一カ所を安堵したもので、

 文安二年九月一五日の某証状の内容を追認したものとなっており、

 おそらく伊東氏による安堵であろう。

 享禄二年(1529)一一月の奈古宮遷宮入用日記写(同文書)によると、

 南方代官稲津修理亮は馬一匹・太刀一・料足一貫文・布七を送り、

 太刀一・料足五○○文を送る宮崎庄の北方・池内方とは異なっている。

 同四年一二月二七日、

 福永祐益らは開発した宮崎南方牟田の地を奈古社へ寄進している

 (「福永祐益他三名連署寄進状写」同文書)。

 永禄七年(1564)三月二五日には奈古社の善神王再興の法会に

 南方代官が料足五○○文と太刀一を奉納しており

 (「 善神王再興日記写」同文書)、

 奈古社は伊東氏領下で重視されていた。

 なお室町期の私年号ともみられる

 応享二年三月四日の奈古八幡宮正祝職算田目録(同文書)には

 「宮崎三百町之内南方」とみえ、建久図田帳の田数が継承されており、

 竜王田が南方の宮後六丁にあり江田との境界になっていた。

 戦国期の伊東氏領の社領を書上げた弘治二年(1556)六月吉日の

 土田帳写(予章館文書)によると、

 奈古社領として南方に御供田など二町九段三○が付けられている。

 この時期と関係するかとみられる年月日未詳の

 妻万宮御宮作材木注文(児湯郡旧社関係文書)には

 宮崎南方が材木調達の地域区分としてみえ、

 伊東氏領下の宮崎の区分に合致している。

 年月日未詳の奈古社相撲日記写(奈古神社文書)には

 南方が筆頭の一番にみえ、

 奈古社所在の地として頂点に立っていた。

 天正五年(1577)伊東氏が日向を失い島津氏が入部すると、

 同八年五月宮崎地頭上井覚兼は柚木崎兵部左衛門尉に

 宮崎院内の南方名馬場薗門六段のうち四段を宛行っている

 (「上井覚兼坪付」綾郷土史)。

 南方は覚兼の支配下にあり、

 同一二年八月一二日には南方と北方から

 雑餉が覚兼のもとに届けられている(上井覚兼。記)。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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