2014年7月8日火曜日

阿曇・安曇(67)奈古神社(なごじんじゃ)


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

 阿曇・安曇(67)奈古神社(なごじんじゃ)

 課題:龍の登場しない龍宮伝説の真相
    ―海洋安曇族の主祭神「海童(わたつみ)」の故郷―

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 出典:平凡社:歴史地名大系
       :370~371頁

 奈古神社:(現)宮崎市南方町

 御供田(ごくでん)にある。

 祭神は瓊瓊杵命・鵜草葺不合命・神日本磐余彦命(神武天皇)。

 旧村社。

 宮崎神宮などとともに古来より領主尊崇の社として名高い。

 古くは権現を称していたが、

 のちに天皇を宇佐八幡、神武天皇を権現と

 称するのはどうかとの奏聞があり、

 八幡の勅号を賜ったと伝え、

 奈古八幡宮と称された(「日向地誌」など)。

 おそらく豊前宇佐宮領宮崎庄あるいはその前身の成立とともに

 鎮守として勧請されたのであろう。

 宝治元年(1247)一一月日の宮崎庄地頭・政所某補任状写

 (奈古神社文書、以下同文書は省略)によると、

 海清久が奈古社大宮司に補任されている。

 弘長元年(1261)一二月一五日、大宮司職は清久から

 海清景に相伝され(海清久譲状写など)、

 以後海氏が当社の大宮司職を世襲しており、

 関東御領宮崎庄の鎮守となっていた。

 当時の社領は疑問な点もあるが、

 弘長元年二月日の奈古神社領注文写に計二四町余の田が記され、

 宮崎庄南方の奈古社大宮司の社田と

 合祀された一八社の祭田からなっている。

 同年地頭側は清景の屋敷と仁王田五段を安堵し、

 さらに公文とみられる吉清作の櫛曳田六段と新開一段を停止し

 清景に安堵している

 (同年二月日地頭僧某下文写・同年三月二○日地頭僧某下文写)。

 一方、清久夫人とみられる大宮司後家比丘尼に対しては、

 文永二年(1265)三月笠本里内の牟多田三段を安堵している

 (地頭・公文連署下文写)。

 この間、清景への大宮司職相伝に関して相論があったとみられ、

 同三年七月三日鎌倉御家人八田時家とみられる人物の意図を受けて

 安堵され(里長奉書写)、

 さらに同六年七月二八日の右衛門尉為親奉書(写)、

 建治二年(1276)閏三月一日の某書下(写)によって

 宮崎庄南方・北方地頭代に伝達され安堵された。

 清景の死去後、子息三郎重清と重清の継母清景後家氏女との間で

 笠本村の当社大宮司職とその社田をめぐり相論となった。

 地頭所の裁許状とみられる

 弘安五年(1282)三月二五日の某裁許状写によると、

 重清は清景の病中に譲状に清景の花押を使って自身の領有を主張したが、

 「地頭御方」の年貢などは惣領がまとめて負担することとし、

 後家の一期分と、その後に後家の子で重清舎弟の竹王丸(頼清)が

 継承することが認可されている。

 また同年四月一二日には清景跡の田地四町八段は三分二が重清分、

 三分一を後家が相伝することとなったが、

 後家提出の文書には五町六段三○とあるうえ

 後家分の田地が下田ばかりの注進もあり、

 別当寺僧とみられる笠本法橋を仲介役にして

 新たに先の配分率に従って分配した(僧明生奉書)。

 なお同年五月五日の奈古宮大宮司職田地注文写には

 五町五反二○中の田地が書上げられ、

 公田分は三町二反で、

 これが前記の重清分の配分内容を示すものとみられる。

 その地目には行事用途田として放生会田がみられ、

 放生会が祭礼で大きかったことを示しており、

 また山皇田がみられることから別当寺は天台系だったのであろう。

 同注文写にみえる御穀田(御供田)・大隅田・森田は

 現南方町内の小字として残る。


 弘安五年一○月五日僧明生は先の配分を安堵しているが、

 その通知先は切畑法橋の子公文阿闇梨であった(僧明生奉書写)。

 同年閏一二月には後家が改嫁したため後家分を

 竹王丸が相伝することとなった

 (同月五日静源重奉書写)。

 その後頼清は相伝レた後家尼知行の三分一をめぐり

 兄重清と相論となっており、

 安堵先は笠森居住の人物であった(年未詳二月二日頼清書状写)。

 なお嘉元四年(1306)二月七日、

 頼清は沙弥祥恵相伝の笠本村内の又次郎助守跡の田地を相伝しており

 (沙弥祥恵書下写)、

 文保元年(1317)一一月六日には藤原忠存から

 当社神主職に補任されている(藤原忠存奉書写)。

 一方、重清は同月一七日、

 伊東四郎の下人の本鳥(警)を切った罪科により大宮司職を改易され、

 頼清が大宮司職に補任されている(藤原某書下写)。

 正中二年(1325)九月五日の鎮西下知状写によると、

 当社は日向国内八幡社の随一の崇神とされた。

 当社は、近隣の新名爪別符の預所元氏が九月一五日の祭礼

 (放生会か)に饗膳・相撲の役を果さなかったため、

 宮崎庄地頭戸次貞頼の挙状を添えて訴えた。

 これに対し元氏方は土持久栄を通して頼清が

 元氏領の牛馬を押取る狼籍を

 働いたと貞頼に訴えている。

 結果は元氏が相論の場に出廷しなかったため

 頼清が大宮司職を安堵されている。

 当社は宮崎庄近隣の豊前宇佐宮領の放生会神事遂行の場であった。

 暦応四年(1341)一一月二二日、沙弥某は馬一匹を

 奈古社修理用に施入している(沙弥某奉加状写)。

 延文五年(一三六○ )一一月日の

 奈古八幡大宮司方料物米注文写によると、

 当社の放生会には寄郡から酒が出されろことになっており、

 「方々くりさけ」とみえる。

 これは先にみた宮崎庄近郊の宇佐宮領から用途として

 酒が奉納されたことを示している。

 正月用途として弥靭田があり、

 別当寺には弥勤が安置されていたことがうかがえる。

 また毎月朔日御幣田がみえ、毎月一日に祭礼が行われていた。

 永享六年(1434)一○月一一日、大宮司盛久に田二段余が預けられ

 (松葉利武預置状写)、

 同一二年二月一○日には新名爪内の大柚木横枕五段が寄進されている

 (某寄進状写)。

 また文安三年(1446)四月一○日には

 当社供僧用途の水田五段と坊地が安堵されている(利正安堵状)。

 文安三年六月、土持氏一族の宮崎城が伊東氏に攻め落されると

 (日向記)、

 伊東氏の影響が目立ってくる。同年一一月一五日、

 代官祐守は宮崎北方の萩原内の田一段を寄進(代官祐守寄進坪付写)、

 同四年閏三月二三日には代官康綱(野村氏か)が

 宮崎庄立聞権現の祭田二段を南方の屋敷とともに

 宮司一族の長鶴女に寄進(代官康綱奉書写)、

 同五年一月一一日には源祐幸が同庄内池内方の萩薗一段を

 当社に寄進している(源祐幸寄進状写)。

 同六年一一月二七日には伊東祐尭が檀越となって

 当社を造営し参詣している(奈古社上棟記録写)。

 文安五年九月九日の大宮司盛久田地譲状写によると、

 放生会田など六町二段三○のほか、

 若菜田など毎月の行事用途田四町六反三○ があった。

 同六年六月二五日の盛久譲状写によると、

 大宮司職相伝にあたり子息間で争いがあったが、

 義によって幼少の助三郎清重に決定した。

 そして大宮司の経営する田について助三郎が幼少の間は、

 ほかの三兄弟が水田一町のうち三段ずつもつことに決定している。

 宝徳四年(1452)九月二九日の太示古宮神田注文写には

 修理田など本神田は三田五段となっており、

 神領全体が一○町九段一○であることから箭掲盛久田地譲状写)、

 盛久による所領の分割は神領でも同様だったのであろう。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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