2014年7月7日月曜日

阿曇・安曇(64)東臼杵郡(4)


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

 阿曇・安曇(64)東臼杵郡(4)

 課題:龍の登場しない龍宮伝説の真相
    ―海洋安曇族の主祭神「海童(わたつみ)」の故郷―

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 出典:平凡社:歴史地名大系
       :201頁

 「立磐神社(たていわじんじや)」(現)日向市美々津町

 美々津町の北端、耳川北岸に鎮座。

 祭神は底筒男命・中筒男命・表筒男命。

 旧郷社。

 弘治二年(1556)六月吉日の土田帳写(予章館文書)には、

 「ミヽ立岩大明神領」として「野別符之内代か原」二反小、

 「同所松くき」田一反・屋敷一カ所とみえる。

 野別府は耳川河口部右岸から南は小丸川に至る地域名称である。

 神社に残る棟札によると

 元和九年(1623)・寛文八年(1668)・宝永二年(1705)・

 享保九年(1724)・享和三年(1803)に修復されている。

 寛永一五年(1638)の高鍋藩人給帳では

 「美々津 立岩神領」として五石とある。

 美々津は神武天皇東征の際、この湊から船出したという伝説の地で、

 当社境内には天皇が腰掛けたと伝える腰掛岩がある。

 旧暦八月一日に行われる「起きよ祭り」は

 神武東征伝説にまつわる祭である。

 神武天皇が日向国を立ち大和に向かうとき、

 船出がにわかに早まり八月一日の早朝に繰上げられ、

 住民を「起きよ」紀きよ」と呼起したことに由来するという。

 祭の前日、各家庭では笹竹に紙飾りをつけた「七夕」を立てる。

 当日朝三時半頃まだ暗いうちから、

 男の子は七夕飾、女の子は鳳仙花を持ち、

 「起きよ」「起きよ」といいながら、各家の戸をたたく。

 起こされた家は玄関などに設けられた御神灯の火をいれ、

 当社に参拝する。

 起こしながら町筋を回った子供たちは、

 水平線上が明るくなりかけた海岸へ行き笹竹を海に流す。

 この日、美々津では「揚きいれ餅」を作る。

 この餅は船出が早まり神武天皇一行に差出す餅作りが間に合わず、

 米の粉と小豆を鳩き混ぜて作ったという。

 港の沖に「御船出の瀬戸」という岩礁があり、

 天皇の船団がこの岩礁の間を通って船出したという。

 しかし天皇は再びこの地に帰って来なかったので、

 現在でも漁船など船出のとき、この岩礁の間は航行しない。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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