2014年7月7日月曜日

阿曇・安曇(63)東臼杵郡(3)


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

 阿曇・安曇(63)東臼杵郡(3)

 課題:龍の登場しない龍宮伝説の真相
    ―海洋安曇族の主祭神「海童(わたつみ)」の故郷―

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦


 出典:平凡社:歴史地名大系
       :200~201頁

 「美々津町(みみつちょう)」(現)日向市美々津町

 上別府村の東端部を占め、耳川河口の美々津(耳津)湊を

 中心に古くから廻船業が繁栄した。

 細島湊と並んで日向国の重要な湊町。

 神武天皇東征の際の出発湊であるとの伝説をもつ。

 弘治一一年(1556)六月吉日の土田帳写(予章館文書)に

 「ミミ」とみえ、

 立岩大明神(現立磐神社)があったことが記される。

 天正一二年(1584)五月二一日、肝付兼寛は上洛に際して

 「美々津・細島」から出船の予定であると宮崎地頭である

 上井覚兼に伝えている(上井覚兼日記)。

 「上井覚兼日記)同一三年三月一一日条に「美々津町」とみえ、

 地下衆は「町衆」ともよばれ当時湊町が形成されていた。

 宮崎城主として覚兼はしばしばこの地を訪れ、

 地下衆の歓待を受けている。

 同一四年二月一四日、覚兼は島津義久の豊後出陣の準備のため、

 御座船の水主50人を美々津・細島から出させ、

 宿を塩見とするための準備を始めている(同日記)。

 美々津町は江戸時代を通じて領知目録上では上別府村に含まれた。

 耳川河口南岸から豊後街道沿いに南に延びる中町筋を中心に、

 北浜町・石並町からなる。

 石並町は中町筋の南、石並川北岸までに美々津大波被害のつど

 屋敷地を南に移して形成された。

 当町には高鍋藩から遣わされた番代が置かれ、

 その下に代官(二名)蔵方(三名)・足軽(一○余名)、

 遠見番所役人(六名)・

 美々津津口番人(数名)、余瀬番人(数名)などが配され、

 町政および美々津湊出入船舶全体を取締った。

 番代は番頭とも称し、初め二名で二○人扶持であったが、

 のち一名で、役料一○○石、

 享保一八年(1733)からは一年任期で交替した。

 蔵方は美々津が高鍋藩領内からの年貢米の津出湊

 (大坂まで183里)であったこと、

 耳川および石並川舟運で集められた上流域からの木材ほか

 諸物資の積出湊であったので、米蔵・船蔵を管掌した。

 享保一九年蔵方三名は、蔵米の引負米が多く不埒として死罪に処され、

 番代はじめ代官らも減封処分を受けている。

 耳川沿い余瀬口を守る余瀬番人は舟荷を監視し、引付証文を出した。

 また余瀬近辺(余瀬・飯谷・田代ケ原)の目付役を兼ね、

 竹山役をも兼務していた。

 なお高鍋藩主や鹿児島藩主が参勤交代時に使用する

 御仮屋が建てられていた。

 町方は老名(乙名)二名が番代以下の役人の命を受け町政を分担。

 船宿・材木問屋・廻船問屋・藩御用船頭・水夫・船大工・諸商人・

 日雇などが居住した(「本藩実録」 ほか)。

 藩御用船頭は慶応元年(1865)の高鍋藩人給帳によれば

 日高重之助で、徒士格37石5斗を給与されていた。

 耳川には渡守がおり、150匁を運上していた。

 東は海に面し、西は山丘が迫る当町は、

 火災に弱い条件を備えていたため、度々大火に見舞われた。

 宝永四年(1707)には291軒が延焼。

 享保七年には357軒が延焼。

 安水九年(1780)には北浜町から出火、

 北東風にあおられ336軒・土蔵21軒が焼失。

 このため突抜とよばれる幅の広い通りが火除地として設けられ、

 町家も漆食の土蔵造が多かった

 (以上「 本藩実録」「拾遺本藩実録」「続本藩実録」)。

 耳川および石並川の舟運は、上流域の延岡藩領の

 入郷(現東郷町・西郷村など)や椎葉など山岳地帯諸村と

 つながりが深かった。

 入郷地区などの木材・木炭など林産物は山陰村(現東郷町)の

 産物会所で船積みし、

 耳川を下り、美々津湊に集められ、大坂などへ積出された

 (「入郷村々産物書類留」長谷川家文書ほか)。

 津口番所では他領からの材木に10分1、

 その他諸品に口銭を課し徴収した(拾遺本藩実録)。

 貞享二年(1685)八月、水戸藩士佐々介三郎宗淳が徳川光圏の命で、

 九州各地の旧跡や古文書の調査を行った際、高城(現木城町)を

 立って津野(現都農町)、美々津を経て富高新町に至り宿泊している

 (「筑紫巡遊日録」国会図書館蔵)。

 元禄三年(1690)九月の山陰一揆では

 延岡・高鍋両藩の交渉が美々津町で行われた。

 この際豊後臼杵藩では、

 同五年五月にかけて小川所助らを日向国に派遣し、

 一揆に関する情報を収集させたが、所助はおもに美々津で情報を集め、

 臼杵に連絡した

 (「小川所助秋月領美々津ニ而承口上書之覚」稲葉家文書ほか)。

 同六年美々津の近藤六郎右衛門・黒木与五兵衛が

 田代村(現西郷村)のなよ竹の取引を延岡藩に申出て、認められている

 (「地方・山方・口屋」九津見家文書)。

 美々津の木屋安右衛門は山陰村寺迫門の山林の一部を、

 寛政一○年(1789)に一七カ年限で買取る契約をした。

 年限が切れたあと、木屋は永代買受であったとして延岡藩に出訴したが、

 文化一四年(1817)木屋は敗訴している(海野家文書)。

 湊口の深さは通常六尺、満潮時には九尺となり、広さは通常七間、

 満潮時には一五間に広がる。

 風向きにかかわりなく船懸りは自由で、

 大船70艘りが係留されていた(元禄国絵図)。

 享保一三年美々津の腰越船の係船場が浅くなり、

 大船が係留できなくなったため人足六○○人

 (うち四○○人は美々津町から)、

 船持は帆一反につき各二歩の費用を出し深く掘った(拾遺本藩実録)。

 石並川以南の漁場は元来川北網場であったが、

 近来美々津網場に免許になった。

 しかし落子・高松町両村などから外稼ができず困窮するとの願出があり、

 宝暦四年(1754)川北網場にもどされた(拾遺本藩実録)。

 明和五年(1768 )に美々津石並川端より高松まで、

 浜之手新道がつくられている(続本藩実録)。

 「日向地誌」によれば美々津町

 (耳川南岸より石並町まで南北六町・東西一町半)の家数398、

 石並町(美々津町より石並川東北涯まで南北四町余・東西三○間)の

 家数23。

 日本形船43(うち運船11・渡船2・漁船20 ・農船10)、

 前代同様耳川舟運での木材ほかの物資が美々津湊に集められ、

 同湊から各地に輸送されていた。

 湊は東西約三町・南北二町余、深さ一~四仞、北岸に出洲があり、

 七○○石以下の船二○余艘をつなぐことができた。

 出入船は年間約二四○~二五○艘。

 明治一七年(1884)美々津港のおもな輸出品は

 松1万2350本・炭125万6560貫・和紙10040束・椎茸2510貫など

 (「統計材料」県庁文書)。

 港町としての町並は日向市美々津伝統的建造物群保存地区として

 国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

 町並の建築物などは、元廻船問屋の河内屋や旧矢野家などに

 代表されるように上方文化の影響を受けている。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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