2014年7月14日月曜日

阿曇・安曇(77)宮崎市・上野町(かみのまち)

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

 阿曇・安曇(77)宮崎市・上野町(かみのまち)

 課題:龍の登場しない龍宮伝説の真相
    ―海洋安曇族の主祭神「海童(わたつみ)」の故郷―

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 出典:平凡社:歴史地名大系
       :363頁

 上野町(かみのまち)(現)宮崎市上野町・橘通西一―二丁目

 東流する大淀川の左岸、飫肥街道沿いに位置する。

 上別府村の枝町。

 延享四年(一七四七)の上別府村明細帳(中村家文書)によると、

 延岡藩有馬氏時代(慶長一九年― 元禄四年)には

 那珂郡下別府村に町立てしていたが、

 寛文二年(一六六二)の大地震で町屋敷が潮入したため居住できず、

 上別府村へ引移り上野町と改名したという。

 延享四年の寵数八四

 (部当一・年寄二・筆者小触一・本百姓七六、小百姓・水呑二 、寺二 )

 ・人数五〇二、馬三五。

 有馬氏時代から下北方村へ出作しており、高一八石余。

 当町は往還筋のため旅人宿が置かれていた

 (同年「演説覚書」内藤文書)。

 赤江(大淀)川には渡場があり、

 上別府村と対岸の太田村中村町の双方から

 月一五日ずつ船渡しが行われた。

 上別府村には渡船一艘があった。

 巡見使の通行や飫肥藩伊東氏の参勤交代の節には

 当町と中村町・福島町・小松村が残らず船を出し、

 船渡しを勤めている。

 当町には五○○石積以下の帆船が五艘あった(前掲村明細帳)。

 延宝三年(一六七五)九月一七日、当地を訪れた橘三喜は

 「上別府を通り、赤江川舟あり、此処を小戸の渡りと云」と記し、

 渡守の語った古歌として

 「日向なる大戸(オド)の渡りの浦こそはあを人ぐさの始なりける」の

 歌を記している(一宮巡詣記)。

 二・六の日には市が立てられた(前掲村明細帳)。

 町内には酒屋が四軒あり、

 酒造株として酒造米石高は

 それぞれ一五○石・三○○石・一八○石・一二〇石であった

 (享和元年「酒造株譲渡井名前替書出J 内藤家文書)。


 文化九年(一八一二)九月六日、

 佐土原(現佐土原町)の当山派修験の大先達

 野田泉光院は宮崎神宮に詣でたのち、

 付近の山伏を支配する当町の修験北山寺大乗院宅に一宿している

 (日本九峰修行日記)。

 文政一一年(一八二八)の宗門人別改帳(内藤家文書)では

 人数三六〇(うち出家一・社人一・山伏一・医師一)。

 万延元年(一八六〇)の宗門人別改帳(同文書)では

 人数四〇七(うち出家一・社人一・山伏一)。

 延享四年の前掲村明細帳によると、

 小戸大明神・大将軍・愛宕社、山城醍醐寺三宝院末寺の真言宗北山寺、

 天文二年(一五三三)証上の開山という浄土宗西満寺があった。

 西満寺は京都知恩院末寺であったが、明治四年(一八七一)廃絶。

 同六年三月の答書控(県庁文書)には

 上別府村から独立して上之町とみえるが、

 「日向地誌」には上別府村内の字地として上ノ町がみえ、戸数一三○ 。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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