2012年3月21日水曜日

地名の検算



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録08:23~24頁

 《地名の検算
 「地名の検算

 横川と加治木と隼人に囲まれて「溝辺町」がある。

 ここはいまは「ミゾベ」と発音するが、

 ここも横川と同じで、溝もなければ溝のそばにもない。

 この地名も旁国以後につけられた位宮側の地名だから、

 溝の字は「コウ」が元の音で、

 高句麗を指す高都か、高屋山上陵の「神戸」とみると、

 いずれにしても「コウベ」と発音するものだったが、

 日本統一後の713年(和銅6年)に出された官命によって、

 強制的に読み替えが実行された際などに、

 ミゾベにされてしまったものとみると、

 隣接する巴利国が近畿に移動した先の播磨(兵庫県)の首都が、

 やはりコウベという地名をもっているのと、

 互いに証明し合っていて少しも食い違いがない。

 それらの境界線をみると、

 もとの鬼奴国から横川が分割され、

 郡支国から溝辺が割かれ、

 巴利国から国分と牧園が割かれた事情が明瞭に理解できる。

 「地図」

 鬼奴国(栗野)

 屋久側(横川)

 馬津国(牧園)

 霧島

 神戸(溝辺)

 郡支(加治木・十文字)

 巴利国(隼人)

 邪馬壹国(国分市)

 錦江湾(鹿児島湾)

 また郡支の「ジュヌ・チー」という漢字音の語源は、

 巴利の名が示す仏教都市の言語パーリ語の

 「 janati 」に対する当て字とみれば

  janati 国は「知の国」という意味だから、

 「賢者の集まるところ」か「学園都市」だったのだ。

 それが漢字で十の字、十文字と当て字されたことから、

 ギリシャ系住民がギリシャ式十文字である「カディキウス」と呼び、

 それが省略された「カディキ」に「加治木」という当て字が生まれたとみると、

 この加治木町や周辺の地域に力士の寺尾吉永小百合榎木孝明上原謙のような

 ギリシャ系の容貌をもった出身者が多い理由も、

 立体的な重層になって互いに立証しあう。

 これらの地名は間違いなく邪馬壹国当時の分割命名の遺物だと断定しても、

 反論はできない。

 この程度みただけでも旁国と非旁国との関係は次から次へと連鎖反応を起こして、

 3世紀の史実を展開して見せてくれるから、

 このシステムは非常に重要なのである。

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