2014年4月6日日曜日

ヤマトを神武以来の国号にしたのは誰か?


 『Yahoo!天気・災害
 『Matのジオログ

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録34:19頁

 確かに奈良はヤマトと呼ばれたが、

 それは神武天皇時代からどころか、

 天武天皇出現まで、

 そんな地名が奈良につくとは、

 想像もできなかった地名だった。

 それは大化改新(乙巳の変)という

 予測不能の突発戦争の生み出した蘇我氏倭国の滅亡。

 それを逆手(さかて)に取って南九州から山人を率いて東征し、

 大津政権を倒して旧倭国政権を「孫継ぎ」した天武天皇が、

 初めてはるばる運んで来た、

 いわば奈良とは無縁だった名前だった。

 こうして「一瞬一瞬」眼まぐるしく変転した歴史が

 奇跡的に7世紀後半に、

 奈良にヤマトの名をつけたのであって、

 紀元前後から8世紀まで、

 えんえんと続いて来た地名でも、

 政権名でもなかったのである。

 この8世紀前半だけの、

 それも正味30年たらずの国号に過ぎなかったヤマトを、

 日本の史学者が全員、

 紀元前後、

 または『日本書紀』が書く

 紀元前660年の神武天皇即位以後ずっと、

 切れ目なく続いていた国号だと思い込んでいたのは一体なぜか?

 その責任は誰にあるのか?。

 それはこの講座の総括として、

 是非、お話ししておかねばならない問題である。

 「日本」に「ヤマト」と振り仮名をした最も古い文献は、

 平安時代前期、

 52代嵯峨(さが)天皇の弘仁(こうにん)4年(812年)前後に、

 『日本書紀』の正しい読み方を講義させた時の原稿として伝わる、

 多人長(おおのひとなが)の

 『日本書紀私記(しき)』(別名日本紀私記』・『弘仁私記』)である。

 《ヤマトを神武以来の国号にしたのは誰か?
 「ヤマトを神武以来の国号にしたのは誰か?

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

0 件のコメント:

コメントを投稿