2014年4月27日日曜日

阿曇・安曇(4)志賀島


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》 

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 阿曇・安曇(4)志賀島

 ※志賀島(東区)
  「地図」志賀島

  島の大部分は「平尾花崗閃緑岩」を主体とする深成岩類からなり、

  2系統の断層により、ほぼ平行四辺形の一種の地塁となる。

  史跡に富む景勝地で、島全体を神域とし、

  『万葉集』以来歌枕として著名。

  地名の由来は「近島」の転訛だという『続風土記』。

  古代は粕屋郡に中世・近世は那珂郡に属したが、

  明治15年再び粕屋郡に属した。

  志賀海神社の神殿の後の山を「勝山」といい、

  これに続く御笠山・衣笠山を志賀三山という。

  島中が神功皇后の伝説で覆われている。

  産土神は志賀海神社。

  志賀海神社の歩射祭・山ほめ祭・神幸祭はよく古式を伝えている。

  〔閃緑岩:(シュメル語)esi:(日本語)"いし"〕

 「古代」

  志賀島は奈良期からみえる地名。

  筑前国粕屋郡のうち。

  『釈日本紀』の引く『筑前国風土記』逸文に

  「粕屋の郡、資珂島」とみえ、

  気長足(そなかたらし)姫尊(神功皇后)がこの島に宿泊した時、

  火を求めにやった小浜という陸続きが

  此の島と打昇の浜と近く相連接けり。

  殆ど同じき地と謂ふべし。

  と報告したことにより近島と名付け、

  それが訛って「資珂島」となったという地名説話を載せている。

  天明4年当地で金印が発掘されたことは著名。

  発見場の叶が崎には現在金印公園があり、記念碑が建つ。

  『日本書紀』神功摂政前紀には「磯鹿海人」がみえるが、

  海の中道製塩遺跡は製塩・漁業を中心とする志賀海人の集落跡。

  ―志賀の白水郎をはじめ半島のことについては

  『万葉集』に

  「志賀乃白水郎」

  「四可能白水郎」

  「之賀之安麻」

  「壮鹿海部」

  「志賀万山」

  「志賀村」

  などとみえ、以後種々の歌集に散見する。

 ※勝馬(東区)

  地名の由来は、

  神功皇后が当地に凱旋したことによるという『続風土記』。

  古くから漁業は行なわず農業のみに従事した。

  産土神は近世まで勝馬神社(沖津宮)。

  明治期頃からは志賀海神社。

  海岸の磯を俗に「お膝本」または「磯良ヶ崎」といい、通船の難所。

  近世、勝馬村、於止の神は乳師ともいい、

  乳汁の乏しい婦女がこの神に祈れば効験があり、

  報賽に柄杓を奉納するという。

  牧谷社は牧ノ内ともいい、香椎明神が馬を飼った所といい、

  太刀打社は香椎宮の太刀を作ったところという(続風土記付録)。

  ほかに、

  志賀明神の旧跡という中津宮・御雷玉神社および禅宗西福寺が

  あった(続風土記)。

 ※宇美:うみ(宇美町)

  古くは「蚊田(かだ)邑」といった。

  宇美の地名は神功皇后が

  この土地で応神天皇を産んだという伝説に由来する。

  その産んだ地が宇美に八幡宮のある所としている。

  従って、宇美八幡宮のは安産の神で、

  その創建は6世紀後半と伝える戦国期の文書があるが不詳。

  「古代」

   奈良期からみえる地名。

  『古事記』に神功皇后が

  「筑紫国に渡りまして、其の御子は阿礼座しつ。

   故、其の御子の生れましし地を號けて宇美と謂ふ」とあり、

  『日本書紀』は「宇瀰」、

  『筑前国風土記』逸文は「宇温野」とする。

  この地名説話は以後、

  『釈日本紀』『皇代記』『日本紀略』などにも受け継がれ、

  『源平盛衰記』43巻にもみえている。

 ※須恵(須恵町:すえ)

  地名は古代の須恵器生産に由来すると考えられており、

  若杉山中腹に8世紀のものとみられる

  須恵器窯跡が見つかっている。

  中世、須恵荘南北朝からみえる荘園名。

 ※蚊田:かだ(宇美町)

 「古代」

  蚊田、平安期にみえる地名。筑前国のうち。

  『先代旧事本紀』応神天皇条に

  神功皇后が「討新羅元年歳次庚辰冬十二月生筑紫之蚊田」とあり、

  『日本紀略』や「皇代記」(郡書3)も同様の記述を踏襲している。

  記述にみえる神功皇后出産地の宇美は粕屋郡宇美町宇美に鎮座する

  宇美宮に比定されており、

  宇美の地が蚊田と呼ばれていたことが知られる。

 ※香住ヶ丘(東区)

  もとは福岡市浜男、唐原の各一部、町名の由来は

  この付近の字名霞ヶ丘と香山にちなむ。

 ※糟屋郡:かすやぐん

  糟屋郡、糟屋、糟谷、滓屋とも記される。

  古代~現在の郡名。

  筑前国及び福岡県の郡の一つ。

  「和名類聚抄」では「加須也」と記しており、

  その訓は「かすや」であろう。

  京都妙心寺の梵鐘銘に

  「戊戌年(698)四月十三日壬寅収糟屋評造春米連鋳鐘」

  とあるのが郡名の初見。

 〔古代〕

  「和名類聚抄」の郷は

  香椎、志珂、厨戸、大村、池田、阿曇、柞原、勢門の9郷。

  当郡須恵付近に夷守駅があったらしい(延喜式)。

  式内社香椎宮は仲哀天皇を祀ったものといわれるが、

  古来祭神は神功皇后とされ、

  新羅との関係が悪化するごとに朝廷から奉幣便が派遣された。

  神門の前の神、木綾杉は神功皇后が朝鮮出兵から帰還し、

  鎧の袖の杉枝を挿したのが生長したという。

  古代創建を伝える寺社は

  他に志賀海神社、宇美八幡宮、勝馬神社、武内宿禰社、

  若杉神社、天降神社、独鈷寺、清滝寺などがある。

 ※志賀海神社

  祭神は底津綿津見神、中津綿津見神、表津綿津見神。

  海の中道から志賀島へ渡った入口にある

  集落の奥まった山手に位置する。

  付近には縄文時代の遺蹟も存在し、

  当地は古来北九州の海上一帯を中心に「海人」を支配し、

  全国的に活動の跡がみられる「阿曇氏の本拠地」でもあり。

  祭神はこの阿曇氏の祖神とも奉斎神ともされており、

  今日の神主家もこの一族である。

  志賀島大明神を宗像大菩薩御縁起(神道大系神社編宗像)や

  八幡愚童訓(思想大系)は神功皇后の三韓出兵の舵取りをしたと記す。

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