2012年5月24日木曜日

不合理に満ちた旁国本州説



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録11:8~11頁

 《不合理に満ちた旁国本州説
 「不合理に満ちた旁国本州説

 この地図をみると疑問が次々に湧いてくる。

 その主なものをあげてみよう。

 ① 国々が余りにもバラバラである

 原文には旁国を列挙した最後に

 「次 有 奴国 此 女王 境界 尽きる所。

  其 南 有 狗奴国 男子を王と為す 

  其 官 有 狗古智卑狗、不属 女王」と書いてある。

 これは旁国が一連の政治勢力圏を形成していたからこそ

 「狗奴国は境界外=勢力圏外にある」と、対比して書けるのだから、

 旁国は一丸となった女王国圏を構成していたことを証明している。

 ところが本州説の地図だと、

 その名が旁国名と共通する国々ははとんど隣接せず、

 あいだに「女王に属しない国々」が大量に挟まっている。

 それらの不属の国々は、敵または敵になる可能性のある国々なのだから、

 この本州に旁国があったとする説では、

 それらの国々は全然政治圏を形成していない。

 これでは属国だという記録に合わず、本州説は成立しない。

 ② 狗奴国以外の「不属 女王」の国々が大量にあり過ぎる

 でもムリに旁国だったと仮定してみても、それなら数多く隣接する、

 それらの大量にある「不属 女王」の国々をなぜ書かずに、

 たった1国だけ狗奴国だけを、わざわざ書いたのか?

 まるで理解も説明もできない結果におちいつてしまうのである。

 ③ そこは通過地や隣接国で、すこしも「遠絶」ではない

 それに都が奈良県にあったのなら、

 九鬼、宇野、播磨、加古、武庫、茅沼、久世、紀伊などは

 畿内説論者も認めている佐賀県松蒲郡の末盧国から

 伊都国(本州説では和歌山県伊都郡)を経て

 奈良の都までのコースの途中にあるか、

 都に隣接しているのだから「遠絶」などしていないし、

 通過地なのだから、対馬、一大、末盧などの国々同様、

 帯方郡使はその眼で見、

 その耳で聴くことができ、詳細が書けたはずである。

 それがナゼ?一言も書けないのか。

 ④ 議論する気にもなれない畿内説の伊都国のデタラメさ

 これは前に既に検討済みの

 「末盧国から東南五百里=30km弱」のところにあると記録された
 
 伊都国が、

 「末盧国の東北東約500km=約一万里」もあるところにある伊都郡のほうが

 「なぜ?正しいのか?」という、

 議論する気にもなれない畿内説論者への詰問でもある。

 ⑤ 旁国は邪馬壹国の存在しない卑弥呼政権時代のもの

 ここで、

 旁国は卑弥呼政権時代の記録だということを確認しておく必要がある。
 
 そこには、はっきり「狗奴国は不属女王」と書いてある。

 壹與政権は、

 敵国だったその狗奴国が卑弥呼政権を倒したあと新しく作った第2の女王国で、

 それが邪馬壹国という中央政権なのだから、

 いわゆるヤマトだという邪馬台国=邪馬壹国は、

 この旁国とは同時に存在しない。

 このことは「旁国はヤマト=邪馬台国とは,全然無関係だ」

 という動かぬ証拠なのである。

 ⑥ 国のサイズが巨大すぎる本州説の誤り

 また帯方郡使が記録した対馬国1000余戸、

 一大国3000ばかりの家、末盧国4000余戸というのは、

 だれがみても町村ていどの戸数の国ばかりなのに、

 旁国と同名の、この地図の国々をみると、

 大半が府県単位であって、

 戸数は少なく見積もっても10倍以上、100倍以上と考えられるものもある。

 ちなみに現代の人口をみてみると、

 対馬約5万人、壱岐約4万人、松浦郡約10万人で、

 古代の一戸を20人ぐらいとすれば、

 対馬約2万人、壱岐約6万人、松液郡も約8万人で、

 1700年も経過した大きな時代差のわりには、

 人口の変動が少ないことが立証できる。

 ところが本州説に合わせて作ったこの地図では、

 西からみていくと土佐の高知県80万人、

 讃岐の香川県約100万人、

 播磨の兵庫県約500万人、

 茅沼の大阪府約800万人、

 紀伊の和歌山県約100万人、

 伊勢の三重県約160万人、

 美濃の岐阜県約190万人などと、

 10倍から100倍単位である。

 時代差による人口増は明治初年でも

 全国で3千万人ていどだったものが1億数千万人に殖えても、

 結局は数培になったに過ぎない。

 3世紀に1千万人ていどだったとしても10数倍にすぎない。

 だから100倍単位というケタ違いの国の大きさは、

 これらは3世紀当時の旁国が人口が殖えたものではなく、

 後世に移動拡大したあとの国々だという動かない証拠で、

 3世紀の旁国が他の地域にあったことを立証している。

 ⑦ 戸数を特記しないことが本州説の誤りを証言している

 郡使は邪馬壹の7万戸がずば抜けて大きく、

 政権交替後の第二の奴国もまた2万戸と特記しているが、

 それなら1戸20人として140万人と40万人である。

 仮に旁国中に1万戸20万人もいる国があれば、

 それは倭人が必ず特別に教えたはずだ。

 だがそんな例は1つもなく、

 旁国はただ単に国名だけが記録された。

 その記録者は帯方郡からやってきた梯儁以外にはないが、

 彼は特記しないことで

 旁国が町村ていどの小国だったことを立証している。

 本州四国の府県単位の大国化した後身ではないと、

 明確に証言しているのである。

 ⑧ なんと!?

   首都・伊都国や敵国・狗奴国まで小国・鬼国の中に!?

 本州説にはさらに奇妙な珍現象がある。

 伊都国は「世々王有り、皆、統属女王国」と記録するので、

 卑弥呼の本領地女王国とは全く別の国だが、

 帯方郡使は2人とも伊都に駐在して以遠には

 進まなかったから、

 梯儁は伊都で卑弥呼に拝假して(面接して)

 魏の皇帝の詔書と親魏倭王の金印紫綬、

 百面の鏡以下の贈り物を規則どおりに手渡した。

 そのとき卑弥呼がいた伊都国こそ、

 卑弥呼を王として共立した倭人連邦の首都だったことが明瞭にわかる。

 また狗奴国は女王の勢力下に入らず、

 数年後には卑弥呼政権を滅亡させた敵国である。

 が、なんと!

 本州説は、町村ていどの国だった鬼国を和歌山県だと主張して、

 地図でご覧の通り、その首都国(伊都郡)と、

 敵国狗奴国(熊野)とをその鬼国の中に入れていのだ…!?。

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