2012年5月21日月曜日

「書いていない」証拠を捜す



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録10:29~31頁

 《「書いていない」証拠を捜す
 「「書いていない」証拠を捜す

 この地理記事の問題は、

 これで終わったわけではない。

 さらに重要なことは

 「書いてある」だけでなく、

 「書いてない」ということもまた、

 検討を忘れてはならない。

 たとえば

 「邪馬台国・大和説」

 または

 「邪馬台国・畿内説」を説く人々は、

 奈良県や近畿圏に女王国があったと主張しているのだから、

 そこまでのより詳しい紀行文、

 または道程表などを、

 原文からとり出して証拠として提出するのが当然の任務である。

 当然それは、

 帯方郡使が書いた報告書に基づいていなければならない。

 勝手に空想した作文ではなんの証拠力もない。

 ところが原文にあるのは、

 「邪馬壹国」までの道程表だけで、

 邪馬台国も邪馬壹国も出てこない。

 まず彼等が主張す邪馬台国また邪馬壹国が書いてない。

 これが①である。

 また原文には、

 さして重要でもない

 女王国南方4000余里にある侏儒国、

 またその東南に住む裸国、黒歯国なども、

 距離、方角まで書いてあるのに、

 詳しく書いてあるのは伊都国までで、

 伊都国から東にあるはずの肝心の女王国へのコースは、

 全然書いてない。

 本当に奈良または近畿に女王国があったのなら、

 梯儁は

 「拝仮 倭王=(女王に会って)」

 皇帝からの贈り物を手渡したのだから、

 奈良または近畿までの道程を、

 たとえ国名・地名だけでも記録し、報告したはずである。

 なぜなら伊都国までの道程では、

 さほど重要とは思えない島の生活まで詳しく報告しているからである。

 それなのに伊都国で終わって、

 そこから近畿までの長い旅程や多数の国々のことは一字も書いてない。

 これが②である。

 このことは、

 梯儁が卑弥呼に会ったのは伊都国以外にないことを証明している。

 卑弥呼が伊都国で梯儁を迎えたことは動かないし、

 伊都国が九州の中にあったことも動かないから、

 仮に女王国が近畿こあったのなら、
 
 彼女は近畿から、

 はるばる長途の旅をして、

 九州の伊都国まで行って梯儁を出迎えたことになる。

 その苦労は、梯儁に対する絶大な敬意と誠意の現われとして、

 当然、重要な挨拶がわりの話題になったはずだし、

 それを聞かされた梯儁も、

 感激し、誇りをこめて報告書に特筆大書する必要があった。

 だがそんなものは片鱗もない。

 大和説・畿内説が正しいのなら、必すあるはずの記事がない。

 このことは大和説・畿内説が余りにも無根拠な空想にすぎない事実を、

 他のなによりもはるかに強力に立証している。

 これが証拠の③である。

 大和説・畿内説が見落としているものがまだある。

 それは「時間」である。

 これも詳しく検討する必要かある。

 卑弥呼が難升米らを派遣して、

 それが帯方郡についたのが

 景初2年(238年)8月

 その年の12月に魏の明帝の詔書が書かれた。

 その紹書と贈り物を梯儁が卑弥呼に手渡したのが

 正始元年(240年)である。

 少なくとも1年以上かかっている。

 それは帯方郡から女王国までの出張旅行に時間がかかったからである。

 その距離を原文は

 「自 郡 至 女王国 萬二千余里」と書いている。

 近畿に女王国があったのなら、

 梯儁が伊都国についたという知らせを、

 近畿の卑弥呼に知らせる使者が行く時間が必要だし、

 それを聞いて卑弥呼が伊都国まで出掛けて行く時間も必要であるから、

 梯儁らは伊都国で待たされたことになる。

 その待ち時間はどれくらいになるか計算してみよう。

 牛馬はいなかったから、

 瀬戸内海を船でいくのが最も進んだ交通手段だった当時、

 それがどれくらい日数がかかったかを考える助けになるのが、

 『延喜式』の主計・上、大宰府のところにある

 「海路30日」という規定である。

 この式は905年に撰上させたものだから、

 卑弥呼当時とは665年の差があり、

 7世紀から、遣唐使が中国へ往来しているので、

 10世紀には船も発達していたのだから、

 3世紀にはさらに長時日かかったとみねばならないが、

 最小限に見積もっても、

 梯儁は2カ月は待たされたことになる。

 それが事実なら梯儁はそのことを報告していなければならないが、

 原文には

 「詣 倭国 拝仮 倭王」

 (倭国をおとずれて倭王にお目にかかった)と書いてある。

 これは倭国の都に到着してすぐ卑弥呼に会ったという報告であって、

 最低2カ月以上も待たされたとは書いてない。

 この報告書もまた女王国の都が伊都国にあったことを証言している。

 これも書いてないことが証拠の④である。

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