2012年11月6日火曜日
移動の推移を教える記録の時代別配列
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録17:11頁
《移動の推移を教える記録の時代別配列》
「移動の推移を教える記録の時代別配列」
では、いっ栃木県まで行ったか?。
都市牛利自身が栃木まで行ったのではないか?
という疑問について考えてみよう。
それには解明済みのものを整理してみると答が確かになる。
① 都市牛利は卑弥呼側だったこと。
② 所領地が首都を意味する「都之城」と呼ばれたはどの、
倭国の有力な後継者だったこと。
③ その地名が消失せずに現代まで残ったのは、
長期間「首都」機能を維持していた証拠。
④ 4~5世紀の記録である『宋書』の倭の五王記事でも、
関東はまだ領土外であること。
⑤ その倭国は「隋」時代の記録『隋書』の「東夷・倭国」の章でも、
首都は宇和島で、まだ四国にあったが、これを否定する者でも、
奈良より東にあったとまでは主張できないこと。
⑥ 『日本書紀』のような、人為的な作品でなく、
8世紀の外国人=唐人のみた公平な記録である
『旧唐書』が、倭国と日本を2つの別の国だと明確に区別した上で、
その合併が唐代の7世紀後半になってから起こったことを記録し、
邪馬壹国の後身である小国・日本から見た都城市一帯の日向地域を、
「山外の毛人の国」というと、はっきり記録していること。
これだけで充分、
都市牛利自身が栃木まで行ったのでは絶対にないと結論できる。
それは最後に奈良に至る倭の五王の長期征服戦の、
そのまた後に起こった大移動遺跡なのだ。
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