2012年11月19日月曜日

副葬品に鏡がある古墳は倭人の墓



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録17:25頁

 《副葬品に鏡がある古墳は倭人の墓
 「副葬品に鏡がある古墳は倭人の墓

 倭の名がウワイという仏教語名なのと同じく、

 新羅の名もシラバッガ教徒から生まれた。

 新羅のあった韓国慶州の円墳から鏡が出土しない謎もこれで晴れたし、

 「鏡が副葬されている古墳は倭人=仏教徒のもの」だったことも、

 絶対的な力で不動の結論になった。

 鏡を副葬している古墳の四国・中国以東への分布は、

 卑弥呼政権が位宮らに国土を奪われた後、

 その残党である「女王制仏教徒国家の国民=倭人」が、

 宮崎県=日向に倭女(ウワイ)王国政権を移したあと、

 南九州から北へ東へと拡大していった動かない証拠なのだ。

 それが仮に神武天皇東征によるとする在来の考え通りだったのなら、

 古墳時代は4世紀からでなく、

 もっと早い時代、

 『日本書紀』が書く紀元前660年はムリでも、

 せめそ帥升王(スサノオ)のいた1世紀初めから奈良に、

 鏡を副葬した古墳群が、

 宮崎県の西都之原ていどには造られていなければならないが、

 現実には現在の、まだ怪しい考古学者の時代判断でも、

 最大限までさかのぼっても3世紀後半以前にできたものは、

 全然存在しないし痕跡すらない。

 鏡を副葬した古墳のない時代の奈良には倭人(うわい)はいない。

 そこは雄略天皇からやっと倭国の中にはいり、

 推古・皇極・斉明といったアスカ仏教女帝時代へと続く。

 アスカとは、「アショカ王の都」という名であり、

 そこに残る当時の遺物は全て仏教遺物なのである。

 『My ブログ』
 古代メソポタミア
 歴史徒然
 ウワイト(倭人):大学講義録
 ウワイト(倭人)大学院講義録 
 オリエント歴史回廊(遷都)
 古代史つれづれ 
 古代史の画像
 ネット歴史塾
 古代史ブログ講座
 ネット歴史塾
 ひねもす徒然なるままに    
 「終日歴史徒然雑記」
 「古代史キーワード検索」

 『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
 
 『参考』
 『言語復原史学会:Web』
 『言語復原史学会:画像』 
 『言語復原史学会:画像』
        
 『検索』
 GoogleWeb検索
 Google画像検索
 YahooWeb検索
 Yahoo画像検索
 翻訳と辞書
 リンクフリー〔UTF-8 対応版〕

 《参考》
 古代時代の考古学の最新発見・発表・研究成果
 最新の考古学的発掘の方法
 存在価値が問われる我が国の発掘考古学の現状

0 件のコメント:

コメントを投稿