2012年11月17日土曜日
大阪を扶余にすり替えた天武天皇の大勝利
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録17:22頁
《大阪を扶余にすり替えた天武天皇の大勝利》
「大阪を扶余にすり替えた天武天皇の大勝利」
それが可能だったのは唐軍が実戦に参加した半島植民地の地名が、
もともと倭国の地名と共通のものが多かったからである。
それは大量過ぎるので省略するが、
『三国史記』「志・地理四」を見れば一目瞭然だ。
唐は、朝鮮半島の植民地を百済の本国と錯覚していて
『日本書紀』のウソを見抜けなかったのである。
その「地理四」に半島百済の略史がある。
「至 二十六世 室王 移都 所夫里 国 号 南扶余 至 三十一世 義慈王」。
この記事は武寧王の息子・斐王が
538年に洒比(シヒ)(所夫里はソウルで「都」という意味)に遷都して、
国名を「南扶余」に変えた。
それが最後の王・義慈まで続いたというのだから、
7世紀には半島には事実上「百済」という国は存在しなかったのである。
それなのに唐は南扶余と百済とを混同し、
新旧の両『唐書』も、
大化・壬申の2大革命ほどの大事件を全然知らない。
現代でも本講受講者以外の人は言語復元能力がなく、
高名な教授でも
前記の百済・蝦夷・白村江などの国名・地名が
同じ大阪地域だと知らず、
天武『日本書紀』の謀略を見抜けない。
唐の役人に見抜けなかったのは当然なのだ。
しかしそのお陰で日本は唐の侵略を免れたのだから、
滅びたのは半島の百済だとした
天武天皇の智略が唐に勝ったのである。
唐人の霊は今、
当時の唐に『言語復原史学』がなかったことを、
非常に悔やんでいるに違いない。
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