2012年11月11日日曜日
倭の五王は卑弥呼政権の子孫たち
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録17:16頁
《倭の五王は卑弥呼政権の子孫たち》
「倭の五王は卑弥呼政権の子孫たち」
その日向国と小国・日本の地理と人種関係を、
『旧唐書』は「小国・日本」の説明の中で、
「東界北界 有 大山 為 限 山外 即 毛人之国 =
国の東北部は大きな山が国境になっている。
その向うは毛人国である」と記録している。
この小国・日本に合う地理条件をもった地域は、
日本全国を精査しても鹿児島県以外には絶対にない。
その東北部は全域が霧島山塊で宮崎県との県境を形成していて、
その向うは他国。
そこはもう日本国ではなくて、外国の「毛人国」だと書く。
7世紀でも、日本人は元倭人を毛人と呼んでいたのである。
そこへ逃げた倭国政権の兄たちは、
皆、名乗りの頭に「彦」がついている。
とすれそれは「毛」を意味しているのだから、
「彦=ゲン=ケン=ケの=毛の」なのである。
それはまた同時に「彦=ヒコ=日向」でもあることを、
二重に表現していたのだ。
これで宮崎県へ移動した倭人たちは、
7世紀になってもまだ、
小国・日本とは別の国家を形成維持していた事実がわかる。
5世紀の『宋書「倭国」章』「倭王・武」の上表文中の
「東征毛人55国、西衆夷服66国、海北渡平95国」という視点は、
伊声耆の日向だったことになるから、
倭の五王の名乗りの筆頭にある倭国とは、
やはり卑弥呼政権の子孫が支配し続けた日向を出発点にして、
次第に拡大して行った国だったのである。
『霧島山塊』
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