2012年11月3日土曜日
難升米は第2代・綏靖(スイゼイ)天皇
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録17:8頁
《難升米は第2代・綏靖(スイゼイ)天皇》
「難升米は第2代・綏靖(スイゼイ)天皇」
都市牛利が掖邪狗より前(さき)に魏まで派遣されたのも、
彼が八坂入彦より年長の兄だったからである。
その時、同行した難升米は彼よりさらに年上の男性だった。
彼は率善中郎将という、より高い位を受けたからである。
すると渟名城入姫もまた、その率善中郎将の妻であって、
「難升米」本人ではない。
ではその夫とは誰だったか?。
この難升米はナンシェンミだから、
第2代綏靖(スイゼイ)天皇の名乗り
「渟名川耳=ヌナンシェンミン(博多弁)」への当て字である。
『記・紀』の「神武天皇史」の古い部分は、
崇神天皇と同時代の記事だという大量の証明が厳存するから、
発音だけでなく時間帯から見ても、これが最も正しい答である。
その妃の渟名城入姫は、崇神天皇の勅命で大国魂の神を祭ったところ、
身体は痩せ衰え、髪の毛は抜けて、
それをやり遂げることができなかったというから、
これは難升米との結婚生活が破綻(はたん)したこととみるか、
あるいは敵味方に分かれたためとみるかの、どちらかだが、
このため夫の綏靖(スイゼイ)天皇が、
彼女の系譜から除外されたのだということになる。
『日本書紀』はこの天皇が即位前に、
腹違いの兄「手研耳」を射殺したと記録している。
神武天皇を位宮とすれば、
難升米は位宮の死後に邪馬壹国・男王になったということになる。
彼は短いながらも経歴が書かれ、欠史天皇にされていないのである。
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