2012年11月22日木曜日
平安朝の支配者は邪馬壹国系
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録17:28頁
《平安朝の支配者は邪馬壹国系》
「平安朝の支配者は邪馬壹国系」
播磨とその隣接地名を分析して、
倭国側と邪馬壹国側の子孫がそれぞれ移動して、
後世には隣りあった地域に住むようになったことが分かったが、
それでもまだ、
神戸や宝塚、川西を含んでいた川辺郡が、
但馬、丹波といった北部地域に比べて、
暖かくてよい環境を占めているのはなぜか?と考える必要が残っている。
このことは何を記録しているのか。
河邊=コウナベだから当て字を変えると
「高国部(コウナベ)」。
これは南海の高族と高句麗とに属した人々である。
そして位宮は、まさにその両方の王だった。
狗奴国は沖縄語の高(ク)之国で
太古の「高麗人(カリエン)」以来の南海の支配者高氏。
彼らは併せて高句麗の支配者でもあったのだから、
この状態は後世の日本国の発展移動に伴い、
先発の倭国に強引に割り込んだ痕跡なのだ。
後世という証拠はまだある。
それは播磨国の首都・姫路だ。
これは姫児と書くと姫木との関係が見えて、
一層、巴利国らしくなるが、
姫木(ヒメコ)はそのまま卑弥呼(ヒメコ)と読めるのに対し、
姫路(ヒメジ)はどんなにしても卑弥呼(ヒメコ)とは読めないし、
位宮=山幸の伝承もここには全然ない。
またより後世にこの地域の国々がどう扱われていたかも問題だ。
平安時代の状態を『倭名類聚鈔』で見ると、
摂津は「国郡部」筆頭の第五十二「畿内国」に入れてあるが、
播磨国は第五十七の「山陽国」にしか入っていない。
明らかに支配者は倭人側ではなく邪馬壹国側である。
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