2012年11月13日火曜日
倭王・武の上表当時はまだ大阪止まり
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録17:18頁
《倭王・武の上表当時はまだ大阪止まり》
「倭王・武の上表当時はまだ大阪止まり」
すると武の上表文の
「東征毛人55国、西衆夷服66国、海北渡平95国」の読み方は、
過去のままではいけなくなる。
この上表文の実体は、劉宋の臣下である安東大将軍・武が、
主君である劉宋の順帝に提出した
「報告書」なのであることを見落としてはならない。
この文章は
「私たちが東の毛人の国55カ国を征服して取りましたので、
西の衆夷たちの66カ国も恐れて服従しました。
そこで玄界灘と朝鮮海峡を北へ渡って
朝鮮半島の95カ国も平定しました」という、
次第に大国化した過去の業績を誇示している部分なのだ。
その目的は、それまで自称に過ぎなかった安東大将軍を、
皇帝の公認に格上げしてもらうためで、
讃以来、永く同じことを繰り返してきた。
これは卑弥呼が魏に遣使して
親魏倭王の金印紫綬をもらったのと同じ伝統政策で、
彼らが卑弥呼らの後継者だった証拠である。
478年当時の東55国は旁国サイズだと
「九州東半+四国」ていどだから、
伊声耆らが日向にいた人々を追い出し、
次に讃らが四国を取ったので、
九州の66国もなびいて勢力下に入ったから、
その勢いで朝鮮半島の95国を攻めて
一大連邦国家化した経緯がよくわかる。
だから武上表当時の版図は東は大阪までで、
それ以後の拡大も奈良県下の領土としては、
彼の「武=タケシ」という名乗りに合う
高市(タケチ)郡ぐらいしか考えられない。
『親魏倭王の金印紫綬』
「親魏倭王の金印紫綬」
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