2012年11月16日金曜日
戦勝国・新羅が知らない白村江の大勝利
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録17:21頁
《戦勝国・新羅が知らない白村江の大勝利》
「戦勝国・新羅が知らない白村江の大勝利」
白村江を韓国の地名と信じている人があるが。
戦勝国新羅の正史
『三国史記新羅本紀』は百済戦を詳細に記録しているのに、
白村江に似た地名も海戦も倭軍と戦った記録さえもない。
『日本書紀』だけが
「大唐 軍将 率 戦船一百七十艘 陣烈 於 白村江」と、
たった一度書いているだけなのだ。
しかもその前にはこの戦船一百七十艘は安曇比邏(アヅミヒラ)夫が
扶余国太子豊璋を百済に送った船団だと書き、
同年、阿部比羅夫が船師一首八十艘で蝦夷国を攻めたと、
斉明天皇紀の最後の部分にわざと話して書いてある。
ア津ミ・アベはアメ、ヒラ夫(オ)はシラ王(オ)で
新羅王=天(アメ)命開(ヒラキ)別=天智天皇の名。
蝦夷は蘇我蝦夷=百済倭国王で、
白村江・百済・蝦夷の国は皆同じ大阪なのだから、
この3船団は本当は敵の日本軍の1船団だけなのである。
そんな事実はこの大戦直後には、
『日本書紀』編集者も天武天皇も国民も、知り尽くしている。
それをわざわざ3船団のように見せ掛ける努力を重ねた目的は、
簡単に割り出せる。
天武天皇の当時最大の敵は、
彼が倒した天智天皇一族よりも、巨大な兵力をもつ唐だった。
『日本書紀』はその唐に読ませるのが目的だったから、
本当は敵の新羅=日本軍の船団なのに、
それを自国の船団に見せる記事に仕立て、
百済倭国の首都・大阪の大敗戦も、
朝鮮半島の植民地・扶余国の敗戦にすり替え、
自国の名もわざと日本のまま押し通したのである。
《参考》
『三国史記 卷第七 新羅本紀 第七 文武王』
至龍朔三年 摠管孫仁師 領兵來救府城
新羅兵馬 亦發同征 行至周留城下
此時 倭國船兵 來助百濟
倭船千艘 停在白沙 百濟精騎 岸上守船
新羅驍騎 爲漢前鋒 先破岸陣
周留失膽
龍朔三年に至り、摠管孫仁師、兵を領し来りて府城を救う。
新羅の兵馬、亦発して同征す。行きて周留城下にいたる。
此の時、倭國の船兵、来たりて百濟を助く。
倭船千艘、停まりて白沙に在り。百濟の精騎、岸上にて船を守る。
新羅の驍騎、漢の前鋒と爲り、先ず岸の陣を破る。
周留、膽を失い、遂に即ち降下す。
『三国史記 卷第二十八 百済本紀 第六 義慈王』
劉仁軌及別帥杜爽扶餘隆帥水軍及粮船
自熊津江往白江 以會陸軍 同趨周留城
遇倭人白江口 四戰皆克 焚其舟四百艘
煙炎灼天 海水爲丹
王扶餘豊脱身而走 不知所在
或云奔高句麗 獲其寶劒
王子扶餘忠勝忠志等帥其衆 與倭人並降
劉仁軌及び別帥杜爽・扶餘隆、水軍及び粮船を帥い、
熊津江自り白江に往き、以て陸軍と會し、同じく周留城に趨る。
倭人と白江口に遇い、四戰して皆克ち、其の舟四百艘を焚く。
煙炎、天を灼き、海水、丹く爲れり。
扶餘豊身を而つて脱走し、所在知らず。
或いは高句麗に奔つたと云う。其の寶劒を獲る。
王子扶餘忠勝・忠志等、其の衆を帥いて、倭人と與に並びに降る。
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