2012年11月27日火曜日
黄金塚古墳の主は卑弥呼の後継者
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録17:33頁
《黄金塚古墳の主は卑弥呼の後継者》
「黄金塚古墳の主は卑弥呼の後継者」
黄金塚古墳の被葬者は女性を中心に、
左右を男子の武人二人が守護するように寄り添って葬られている。
だからこれを壹與の墓に見立てた学者もいた。
しかし壹與は時間差よりも、
新羅の始祖王だから、
先にお話しした戒律シラバッガに厳重に拘束されており、
むろんその子孫もその戒律を厳守した。
女性と分かりきった赫居世を、
『三国史記』「新羅本紀」がムリヤリ男性として扱っているのも、
そのシラバッガの戒律のためだったのである。
黄金塚被葬者の女王制と、
景初三年鏡の副葬という葬制、
『宋書』や『唐書』の記録が立証するのは、
この古墳は女性崇拝と鏡を厳禁した
邪馬壹国の後身=新羅や日本人の墓では絶対になく、
間違いなく真の「優婆夷=倭(ウワイ)」で、
卑弥呼の後継者だった大国・倭国の女王の墓だということである。
これが、
南九州の果てで卑弥呼が敗北して死んだ後、
その後継者の黄金塚のヒロインが、
そこから直線で550km離れた和泉で死んで、
景初三年鏡を副葬するまでに200年以上かかった、
その距離と時間の経過を示す真実の歴史なのである。
また『記・紀』は
そのころの天皇を全て男王として描いているが、
黄金塚が教える真相は、
和泉王朝には少なくとも一人は女王がいたという史実である。
そしてイズミは倭済だから、
倭の五王の「済」と一致し、
観世音菩薩を本尊とする古寺・水間寺が近くにある。
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