2012年11月4日日曜日

都市牛利が逃げた先は都之城



 『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録17:9頁

 《都市牛利が逃げた先は都之城
 「都市牛利が逃げた先は都之城

 都市牛利はどうなったか。

 彼は旁国都支王として川内を首都とする一帯を領有していたが、

 その跡は今は高城(タキ)の字(あざ)名を止めているだけだから、

 その地域で繁栄し続けたとは考え難い。

 ところが宮崎県には彼の名乗りが、

 さらに強大な地域の首都名に膨脹しているばかりか、

 古代大国の首都だったという名を、

 現代まで保ち続けているのを見る。

 それは都城市だ。

 そこは卑弥呼時代には、

 現在の都城市・庄内町地区を中心にした旧「嶋津之庄」一帯が、

 旁国の一つ「斯馬国」だったが、そこを含んだ広い市域が、

 過去には勝手には付けられなかつた

 国都という特別な意味の「都之城」という地名を、

 古くからもち、保存してきた。

 この都之城は、そのまま「都=ト」「之=シ」「城=ギ」だから、

 これに「入彦」をつけるとトシギイリヒコで、

 都=都、之=支、「城入=牛利」彦。

 「都支牛利」にも、崇神天皇の皇子・豊城入彦にも一致して、

 川内市よりはこちらのほうが余程「都支国」に相応しい。

 だがそれでは卑弥呼時代の薩摩半島南部が、

 余りにも勢力空白になり不自然過ぎるから、

 唯一の合理的な答として「都支=高城」を採用した。

 そうして歴史の時間帯が少し進むと、卑弥呼政権敗北後、

 高城を捨てた都市牛利が旧・斯馬国に大移動したために、

 都之城と名が変わり、

 そこで繁栄したから、

 その名が現代まで残ったという事情が鮮明になったのである。

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