2012年11月21日水曜日
播磨はなぜ、旁国の巴利国ではないか
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録17:27頁
《播磨はなぜ、旁国の巴利国ではないか》
「播磨はなぜ、旁国の巴利国ではないか」
その摂津の国の西端は川辺(かわべ)郡であることに注意がいる。
なぜなら今は発音が少し違うが、
全く同じ文字の川辺(かわなべ)郡がやはり鹿児島県にあるからである。
『倭名類聚鈔』を見ると、双方とも「河邊郡」で、
発音も「加波乃倍=カハノベ」と同じ仮名がふってあるから、
全く同じ地名だったことがわかる。
河野をコウノと発音することを考えると、
この河邊は「コウベ」とも発音できるから、
古代には今の神戸市域も、この河邊郡の一部だった可能性が高い。
だが問題は鹿児島県の河邊郡は
卑弥呼女王国に属さない薩摩=壹国(サツマ)の中でも、
特に旁国に入っていない地域だったのに対し、
巴利国は大隅にあって卑弥呼政権の首都だった国だという点である。
この全く相いれなかった2国が隣接して移動してきていることと、
南九州本土にあった上位の河邊郡が、
南海の離島の西南瑞の地域にすぎない
下位の瀬戸内人の国=摂津の中の、
その一部としてしか扱われていない逆転現象が起こっている。
こうしたことは巴利国が邪馬壹国のものになり、
「離島人十薩摩人」の勢力が
卑弥呼系の人々より強くなった卑弥呼政権敗北後でないと起こらないから、
これらの国々の人々が移住してきたのは、
邪馬壹国が誕生した後のことだとはっきりわかる。
播磨は巴利国人の移住先ではあるが、
卑弥呼時代の旁国・巴利国では絶対にない、
ということの動かない証拠なのである。
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