2012年11月30日金曜日

「反正女王・天皇陵」を定点にして



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録18:3頁

 《「反正女王・天皇陵」を定点にして
 「「反正女王・天皇陵」を定点にして

 大学講義録17では、

 最大予定紙数をつかい切って、

 著墓古墳が残ってしまったが、

 それでも天皇家はもちろん、

 学界最大の謎の一つだった行方不明の反正天皇陵を、

 しっかり発見し確認することができた。

 それは和泉黄金塚古墳としては知られていたが、

 葬制が明らかに女尊男卑で

 「『記・紀』の男王制の記事に合わない」という決定的な「欠陥」のために、

 「絶対に天皇陵ではない」と、

 天皇陵から無残にも抹殺されてしまっていたのである。

 これも、真実の天皇陵が見向きもされないで放棄された一例であり、

 天武天皇による偽史被害の、許し難い実例の1例なのだ。

 こうしたことを正しく立証して、私たちの祖先を真実の位置に戻し、

 無知をさらけ出して非礼の数々で古人を冒涜して来た連中の実態を、

 国民に伝えて真実を明らかにするのが、

 私たち学徒の使命にはかならない。

 この女王と夫の男王とが、

 同じ名乗りをもつ反正天皇夫妻だったことはいうまでもないが、

 これだけでは、まだ不確かだと感じる人々もあるだろう。

 それには他の五王の確実な墓が、

 どういう地域にあるか、

 その位置と、

 そこに葬られた理由を明らかにして、

 それとこの反正天皇陵とを比較して、

 絶対的な確信のある傍証として提示し、

 読者に、それは史実であると確認されなければいけない。

 『著墓古墳
 「著墓古墳

 『和泉黄金塚古墳
 「和泉黄金塚古墳

 『反正天皇陵
 「反正天皇陵

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2012年11月29日木曜日

白村江も海戦大勝もない『新羅本紀』(原文)



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録17:35~38頁

 《白村江も海戦大勝もない『新羅本紀』(原文)
 「白村江も海戦大勝もない『新羅本紀』(原文)

 唐軍の援兵によって百済と戦い、

 新羅軍が勝ったと記事はあるが、

 太宗紀には倭と戦ったことも、

 倭の字も、

 白村江の戦いも、

 一字も記録はない。

 水軍による戦闘もない。

 百済側は滅亡して歴史記録は残らないが、

 戦勝軍の新羅には詳細な記録が残ったので、

 洩れるはずはない。


 三國史記巻第五 新羅本紀第五(太宗)
  
 太宗武烈王立 諱春秋 眞智王子伊龍春【一云龍樹】之子也 【唐書以爲眞德之弟 誤也】 母天明夫人 眞平王女 妃文明夫人 舒玄角女也 王儀表英偉 幼有濟世志 事眞德 位伊 唐帝授以特進 及眞德薨 羣臣請閼川伊攝政 閼川固讓曰 臣老矣 無德行可稱 今之德望崇重 莫若春秋公 實可謂濟世英傑矣 遂奉爲王 春秋三讓 不得已而就位

 元年 夏四月 追封王考爲文興大王 母爲文貞太后 大赦 五月 命理方府令良首等 詳酌律令 修定理方府格六十餘條 唐遣使持節備禮 冊命爲開府儀同三司新羅王 王遣使入唐表謝

 二年 春正月 拜伊金剛爲上大等 波珍文忠爲中侍 高句麗與百濟・靺鞨連兵 侵軼我北境 取三十三城 王遣使入唐求援 三月 唐遣營州都督程名振 左右衛中郞將蘇定方 發兵撃高句麗 立元子法敏爲太子 庶子文王爲伊 老且爲海 仁泰爲角 智鏡・愷元各爲伊 冬十月 牛首州獻白鹿 屈弗郡進白猪 一首二身八足 王女智照 下嫁大角信 立鼓樓月城内

 三年 金仁問自唐歸 遂任軍主 監築山城 秋七月 遣子左武衛將軍文王朝唐

 四年 秋七月 一善郡大水 溺死者三百餘人 東吐含山地燃 三年而滅 興輪寺門自壞 ■■■北巖崩碎爲米 食之如陳倉米

 五年 春正月 中侍文忠改爲伊 文王爲中侍 三月 王以何瑟羅地連靺鞨 人不能安 罷京爲州 置都督以鎭之 又以悉直爲北鎭

 六年 夏四月 百濟頻犯境 王將伐之 遣使入唐乞師 秋八月 以阿眞珠爲兵部令 九月 何瑟羅州進白鳥 公州基郡江中 大魚出死 長百尺 食者死 冬十月 王坐朝 以請兵於唐不報 憂形於色 忽有人於王前 若先臣長春・罷郞者 言曰 臣雖枯骨 猶有報國之心 昨到大唐 認得皇帝命大將軍蘇定方等 領兵以來年五月 來伐百濟 以大王勤佇如此 故控告 言畢而滅 王大驚異之 厚賞兩家子孫 仍命所司 創漢山州莊義寺 以資冥福

 七年 春正月 上大等金剛卒 拜伊金信爲上大等 三月 唐高宗命左武衛大將軍蘇定方 爲神丘道行軍大摠管 金仁問爲副大摠管 帥左驍衛將軍劉伯英等水陸十三萬 ■■伐百濟 勅王爲嵎夷道行軍摠管 使將兵 爲之聲援 夏五月二十六日 王與信・眞珠・天存等 領兵出京 六月十八日 次南川停 定方發自州 舳千里 隨流東下 二十一日 王遣太子法敏 領兵船一百艘 迎定方於德物島 定方謂法敏曰 吾欲以七月十日至百濟南 與大王兵會 屠破義慈都城 法敏曰 大王立待大軍 如聞大將軍來 必蓐食而至 定方喜 還遣法敏 徴新羅兵馬 法敏至 言定方軍勢甚盛 王喜不自勝 又命太子與大將軍信 將軍品日・欽春【春 或作純】等 率精兵五萬應之 王次今突城 秋七月九日 信等進軍於黄山之原 百濟將軍伯 擁兵而至 先據嶮 設三營以待 信等 分軍爲三道 四戰不利 士卒力竭 將軍欽純謂子盤屈曰 爲臣莫若忠 爲子莫若孝 見危致命 忠孝兩全 盤屈曰 謹聞命矣 乃入陣 力戰死 左將軍品日 喚子官状【一云 官昌】 立於馬前 指諸將曰 吾兒年纔十六 志氣頗勇 今日之役 能爲三軍標的乎 ■■官状曰 唯 以甲馬單槍 徑赴敵陣 爲賊所擒 生致伯 伯俾脱胄 愛其少且勇 不忍加害 乃嘆曰 新羅不可敵也 少年尚如此 況壯士乎 乃許生還 官状告父曰 吾入敵中 不能斬將搴旗者 非畏死也 言訖 以手掬井水飮之 更向敵陣疾鬪 伯擒斬首 繋馬鞍以送之 品日執其首 流血濕袂 曰 吾兒面目如生 能死於王事 幸矣 三軍見之 慷慨有死志 鼓噪進撃 百濟衆大敗 伯死之 虜佐平忠常・常永等二十餘人 是日 定方與副摠管金仁問等 到伎伐浦 遇百濟兵 逆撃大敗之 信等至唐營 定方以信等後期 將斬新羅督軍金文穎【或作 永】於軍門 信言於衆曰 大將軍不見黄山之役 將以後期爲罪 吾不能無罪而受辱 必先與唐軍決戰 然後破百濟 乃杖鉞軍門 怒髮如植 其腰間寶劒 自躍出鞘 定方右將董寶亮 躡足曰 新羅兵將有變也 定方乃釋文穎之罪 百濟王子 使佐平覺伽 移書於唐將軍 哀乞退兵 十二日 唐羅軍■■■圍義慈都城 進於所夫里之原 定方有所忌不能前 信説之 二軍勇敢 四道齊振 百濟王子 又使上佐平致餐豊腆 定方却之 王庶子躬與佐平六人 詣前乞罪 又揮之 十三日 義慈率左右 夜遁走 保熊津城 義慈子隆與大佐平千福等 出降 法敏跪隆於馬前 唾面罵曰 向者 汝父枉殺我妹 埋之獄中 使我二十年間 痛心疾首 今日汝命在吾手中 隆伏地無言 十八日 義慈率太子及熊津方領軍等 自熊津城來降 王聞義慈降 二十九日 自今突城至所夫里城 遣弟監天福 露布於大唐 八月二日 大置酒勞將士 王與定方及諸將 坐於堂上 坐義慈及子隆於堂下 或使義慈行酒 百濟佐平等羣臣 莫不鳴咽流涕 是日 捕斬毛尺 毛尺本新羅人 亡入百濟 與大耶城黔日 同謀陷城 故斬之 又捉黔日 數曰 汝在大耶城 與毛尺謀 引百濟之兵 燒亡倉庫 令一城乏食致敗 罪一也 逼殺品釋夫妻 罪二也 與百濟來攻本國 罪三也 以四支解 投其尸於江水 百濟餘賊 據南岑・貞 ■■■城 又佐平正武聚衆 屯豆尸原嶽 抄掠唐・羅人 二十六日 攻任存大柵 兵多地嶮 不能克 但攻破小柵 九月三日 郞將劉仁願 以兵一萬人 留鎭泗城 王子仁泰與沙日原・級吉那 以兵七千副之 定方以百濟王及王族臣寮九十三人 百姓一萬二千人 自泗乘廻唐 金仁問與沙儒敦・大奈麻中知等偕行 二十三日 百濟餘賊入泗 謀掠生降人 留守仁願出唐・羅人 撃走之 賊退上泗南嶺 竪四五柵 屯聚伺隙 抄掠城邑 百濟人叛而應者二十餘城 唐皇帝遣左衛中郞將王文度 爲熊津都督 二十八日 至三年山城 傳詔 文度面東立 大王面西立 錫命後 文度欲以宣物授王 忽疾作便死 從者攝位畢事 十月九日 王率太子及諸軍攻禮城 十八日 取其城置官守 百濟二十餘城 震懼皆降 三十日 攻泗南嶺軍柵 斬首一千五百人 十一月一日 高句麗侵攻七重城 軍主匹夫死之 五日 王行渡灘 攻王興寺岑城 七日乃克 斬首七百人 二十二日 王來自百濟論功 以衿卒宣服爲級 軍師豆迭爲高干 戰死儒史知・未知活・寶弘伊・屑儒等四人 許職有差 百濟人員 並量才任用 佐平忠常・常永 達率自簡 授位一吉 充職摠管 恩率武守 授位大奈麻 充職大監 恩率仁守 授位大奈麻 充職弟監

 八年 春二月 百濟殘賊 來攻泗城 王命伊品日爲大幢將軍 文王 大阿良圖 阿忠常等副之 文忠爲上州將軍 阿眞王副之 阿義服爲下州將軍 武・旭川等爲南川大監 文品爲誓幢將軍 義光爲郞幢將軍 往救之 三月五日 至中路 品日分麾下軍 先行 往豆良尹【一作 伊】城南 相營地 百濟人望陣不整 猝出急撃不意 我軍驚駭潰北 十二日 大軍來屯古沙比城外 進攻豆良尹城 一朔有六日 不克 夏四月十九日 班師 大幢誓幢先行 下州軍殿後 至賓骨壤 遇百濟軍 相鬪敗退 死者雖小 失亡兵械輜重甚多 上州郞幢遇賊於角山 而進撃克之 遂入百濟屯堡 斬獲二千級 王聞軍敗大驚 遣將軍金純・眞欽・天存・竹旨濟師救援 至加尸兮津 聞軍退至加召川 乃還 王以諸將敗績 論罰有差 五月九日【一云 十一日】 高句麗將軍惱音信 與靺鞨將軍生偕合軍 來攻述川城 不克 移攻北漢山城 列抛車 飛石所當 屋輒壞 城主大舍冬川 使人擲鐵藜於城外 人馬不能行 又破安養寺廩 輸其材 隨城壞處 即構爲樓櫓 結網 懸牛馬皮綿衣 内設弩砲以守 時城内只有男女二千八百人 城主冬川 能激勵少弱 以敵強大之賊 凡二十餘日 然糧盡力疲 至誠告天 忽有大星 落於賊營 又雷雨以震 賊疑懼解圍而去 王嘉奬冬川 擢位大奈麻 移押督州於大耶 以阿宗貞爲都督 六月 大官寺井水爲血 金馬郡地流血廣五歩 王薨 諡曰武烈 葬永敬寺北 上號太宗 高宗聞訃 擧哀於洛城門

 三國史記 卷第五

 三國史記 新羅本紀

 『三國史記巻第五 新羅本紀第五(太宗)
 「三國史記巻第五 新羅本紀第五(太宗)

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2012年11月28日水曜日

ついに不明の「反正天皇陵」発見



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録17:頁

 《ついに不明の「反正天皇陵」発見
 「ついに不明の「反正天皇陵」発見

 水間はミズマで、古い沖縄発音だとミズバである。

 倭の五王はすでにお話ししたとおり、

 讃は仁徳天皇。

 珍は履中天皇。

 済は反正天皇。

 興は允恭・安康天皇。

 武は雄略天皇である。

 反正天皇の名乗りは「瑞歯(ミズバ)別」だから

 ミズバ=ミズマ=水間である。

 そこに水間寺があるのは偶然ではない。

 多くの例証によって倭国の皇室の特質は、

 姫木山と卑弥呼と同じく、

 寺の名と天皇の名乗りの発音が一致すれば、

 その古寺は元皇居だったという証拠になる。

 さらに黄金塚の名も強い傍証になる。

 これを文字通りの金属名だとしては、

 全く無意味に近いが、

 「黄」をオウ、「金」をキンと漢音で読むと「オウキン」、

 「大君(おおきみ)」または

 「倭王(オウキン)」の九州発音に一致する。

 この地域の住民は九州からの移住者だ。

 埋葬当時の呼び名が残っていた間に、

 後世人が、わざとか、洒落てか、

 「黄金」と当て字したことが見えてくる。

 こうして和泉倭国の皇居が見つかると、

 そこで観世音菩薩を祀っていた優婆夷女王こそ、

 2人の武人と景初三年鏡に守られて眠る、

 この黄金塚古墳の主だと確認できる。

 これが大学講義録10の最後でお約束した問題のお答である。

 しかしそのお約束を果たすには、

 それまでの散発的な教材による講義を、

 徹底した精講に変える必要があったので、

 大学講義録11以降、現在のスタイルに変えさせて戴いた。

 少しお手間をとらせたが、ご満足戴けたと信じている。

 『倭の五王
 「倭の五王

 『讃は仁徳天皇
 「讃は仁徳天皇

 『珍は履中天皇
 「珍は履中天皇

 『済は反正天皇
 「済は反正天皇

 『興は允恭・安康天皇
 「興は允恭・安康天皇

 『武は雄略天皇
 「武は雄略天皇

 『姫木山と卑弥呼
 「姫木山と卑弥呼

 『水間寺
 「水間寺

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2012年11月27日火曜日

黄金塚古墳の主は卑弥呼の後継者



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録17:33頁

 《黄金塚古墳の主は卑弥呼の後継者
 「黄金塚古墳の主は卑弥呼の後継者

 黄金塚古墳の被葬者は女性を中心に、

 左右を男子の武人二人が守護するように寄り添って葬られている。

 だからこれを壹與の墓に見立てた学者もいた。

 しかし壹與は時間差よりも、

 新羅の始祖王だから、

 先にお話しした戒律シラバッガに厳重に拘束されており、

 むろんその子孫もその戒律を厳守した。

 女性と分かりきった赫居世を、

 『三国史記』「新羅本紀」がムリヤリ男性として扱っているのも、

 そのシラバッガの戒律のためだったのである。

 黄金塚被葬者の女王制と、

 景初三年鏡の副葬という葬制、

 『宋書』や『唐書』の記録が立証するのは、

 この古墳は女性崇拝と鏡を厳禁した

 邪馬壹国の後身=新羅や日本人の墓では絶対になく、

 間違いなく真の「優婆夷=倭(ウワイ)」で、

 卑弥呼の後継者だった大国・倭国の女王の墓だということである。

 これが、

 南九州の果てで卑弥呼が敗北して死んだ後、

 その後継者の黄金塚のヒロインが、

 そこから直線で550km離れた和泉で死んで、

 景初三年鏡を副葬するまでに200年以上かかった、

 その距離と時間の経過を示す真実の歴史なのである。

 また『記・紀』は

 そのころの天皇を全て男王として描いているが、

 黄金塚が教える真相は、

 和泉王朝には少なくとも一人は女王がいたという史実である。

 そしてイズミは倭済だから、

 倭の五王の「済」と一致し、

 観世音菩薩を本尊とする古寺・水間寺が近くにある。

 『壹與
 「壹與

 『新羅の始祖王
 「新羅の始祖王

 『水間寺
 「水間寺

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2012年11月26日月曜日

景初三年鏡200年伝世と副葬の謎



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録17:32頁

 《景初三年鏡200年伝世と副葬の謎
 「景初三年鏡200年伝世と副葬の謎

 氏は続けて

 「仮にこの鏡が二三九年に魏でつくられ、

  その年かその直後に日本列島に運ばれてきたとしましても、

  この古墳に埋めらるるまでの

  約二百年はどこでどのようにして保持されていたのか。」

 と結んでいるが、

 この鏡には実に大きな意義があり、答えがある。

 5世紀の古墳が卑弥呼の墓でないことは誰にでもわかる。

 それなのに卑弥呼当時の年代を彫った鏡が副葬されていた。

 これは、

 たとえどんな遺物が出ても、

 それだけでは卑弥呼の墓だと断定する証拠にはならない、

 という、

 発掘考古学の限界を教える重大な教訓なのだ。

 従来は何か出るとすぐ「邪馬台国だ!」と

 狂喜宣伝する考古学者が続出したが、

 景初3年鏡でも、

 こんなふうに証拠にはならない。

 粗雑な史観と売名に毒された似非学者には、

 真の史実はとても復元できない現実の厳しさを、

 はっきり頭に焼きつけておいて戴きたい。

 それより5世紀にも鏡を貴び、

 副葬する伝統を持ち続けた人々が、

 土師器と須恵器産業の経営者だったという事実と、

 その最高支配者らが、

 卑弥呼の鏡を意識して所有し続けており、

 景初三年の文字が権力の象徴として強力に役立っていたということ、

 その鏡は200年を超えて伝世されてきたのに、

 その伝統がこの黄金塚の主葬者で断たれて、

 死骸と共に葬り去られた事実。

 こうした史実が、

 復元史学の大収穫として貴重なのである。

 『卑弥呼の墓
 「卑弥呼の墓

 『発掘考古学の限界
 「発掘考古学の限界

 『卑弥呼の鏡
 「卑弥呼の鏡

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2012年11月25日日曜日

和泉黄金塚古墳は卑弥呼か壹與の墓か?



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録17:31頁

 《和泉黄金塚古墳は卑弥呼か壹與の墓か?
 「和泉黄金塚古墳は卑弥呼か壹與の墓か?

 この近畿陶芸産業の中心地・和泉は

 「景初三年鏡」を副葬していた

 「和泉黄金塚古墳」がある地域である。

 この鏡はその年号からみて、

 卑弥呼が魏から貰った百面の鏡の一つである可能性が高いというので、

 邪馬台国畿内説を非常に勇気づけ、

 一時は「黄金塚こそ卑弥呼の墓だ」と主張する人物まで現われたが、

 この古墳の発掘研究者の一人である

 森浩一氏(元同志社大学教授)らが、

 年代測定上、それはありえないと否定して、

 卑弥呼の墓説は消滅してしまった。

 念のため森氏の説を

 朝日新聞社刊の『邪馬台国のすべて』から抜粋しておこう。

 「語りかける出土遺物」森浩一「『和泉黄金塚古墳』(昭和二十九年)

 という報告書では

 「4世紀の中ごろか、その後半であろうと書いたのです。

  (中略)日本の古墳の年代を決める場合、

  有力な材料に使っておったのが天皇陵とその年代でありました。

  (中略)が意外と積極的に証明する資料がない。

  最近では古墳時代に関するほとんどの天皇陵を私は疑っております。

  (中略)天皇制の学問への呪縛から自由になろうと思うのです。

  (中略)黄金塚古墳の年代は、

  私は現在では5世紀の初頭まで下げなくてはいけないと考えています。

  それは日本の古墳との比較からも、

  また東棺にあった新羅の慶州の古墳から

  よく出る長さ六センチある水晶の切り子玉が、

  朝鮮の古墳との関係の手掛かりをあたえています。」

 『景初三年鏡
 「景初三年鏡

 『和泉黄金塚古墳
 「和泉黄金塚古墳

 『森浩一氏
 「森浩一氏

 『邪馬台国のすべて
 「邪馬台国のすべて

 『語りかける出土遺物
 「語りかける出土遺物

 『水晶の切り子玉
 「水晶の切り子玉

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2012年11月24日土曜日

和泉移住者は大隅・筑紫の混成軍



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録17:30頁

 《和泉移住者は大隅・筑紫の混成軍
 「和泉移住者は大隅・筑紫の混成軍

 でもまだ、それだけで大隈人と断定してはいけない。

 大隈は倭住(オースミ)とも当て字でき、

 倭住はイズミとも発音できるが、

 出水はイズンでイズミではない。

 だから大阪府南部の和泉(イズミ)は大隅人の移住地なので、

 証拠も多種多様にある。

 ハシの名をもつ土師(ハジ)器もその一つなのだ。

 この土師器と全く同じ立場に立つ、

 古墳時代のもう一つの窯業製品に「須恵器」がある。

 須恵は、これも九州の福岡県宗像市にある地名で、

 土師器と同じ命名法の産物である。

 これは「陶物・陶器」と書いても

 「スエモノ・スエキ」と読む硬い陶質の焼物で、

 古墳時代の日用品として、

 また大阪府南部を中心に大量に生産され、

 販売された一大産業の主役として、

 古代経済史上の花形でもあろ。

 それに比べると土師器は柔らかく壊れやすいので、

 カワラケと呼ぶ下級品だったが、

 後世には供物(くもつ)を盛る聖器として、

 かえって余命を保っている。

 実際に発掘してみると、

 2種とも同じ窯跡から同時に出土する。

 窯の高温部で須恵器を、

 低温部で土師器を温度差を活用して焼いている。

 これは単純にみると大隅と筑紫が一体化した形で、

 『記・紀』に壹與が神功皇后として北九州へ遠征し、

 筑紫国を傘下におさめて白日別にしたという記録があるから、

 一見、移動者は邪馬壹国人であって、

 卑弥呼政権の残党・日向倭国人ではないように見えるが、

 一体?

 どちらが正しいのであろう?

 『土師器
 「土師器

 『須恵器
 「須恵器

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2012年11月23日金曜日

近畿東征者の謎を解く「土師器」



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録17:29頁

 《近畿東征者の謎を解く「土師器」
 「近畿東征者の謎を解く「土師器」

 また

 「10世紀の支配者は高族系だから

  摂津・山陽に進出したのは邪馬壹国だ」とは決められない。

 住民分析には、

 考古学上の発掘・出土文化財もまた強力な証拠力をもっている。

 それはさきに徹底して検討した「箸墓」にも深く関わっていて、

 その墓の被葬者問題に明快な結論を提供する。

 箸は発音ハシだから

 「長谷・泊瀬」よりも、

 はるかに「土師」に近い。

 この土師は古墳時代の土器の分類名

 「土師器」の名にも使われている。

 これはハジやハゼとも発音される通り百済(ポセイ)から分かれたもので、

 その発音変化は、

 フジ・フチは沖縄語、

 ハセ・ハゼは種子島語、

 ハシ・ハジは大隅語によるものである。

 さらにその当て字の用字法が重要な問題を解決してくれる。

 「ハ」に対して「土」の字を当てるのは南西諸島の特色である。

 それはこの「土」字が慣用される原因になった生物が、

 この諸島だけに生息しているという特殊事情があるからである。

 その生物は毒蛇の「ハブ」で、

 これに「土から生じた神」といった畏敬を込めた

 当て字「土生」が当てられた。

 いま全国に広がっている土生(ハブ)・羽生(はぶ)姓のルーツは、

 この南西諸島の海人族の竜蛇(ナーガ)信仰にあり、

 長谷中、箸中、櫛長・茎永、中之島といった名詞や

 豊玉姫や三輪山伝説に直接結びつく。

 箸墓も土師器もその子孫の文化財で、

 その発音が示すとおり大隅語人の移住によるものである。

 『箸墓
 「箸墓

 『土師器
 「土師器

 『土師
 「土師

 『ハブ・蛇
 「ハブ・蛇

 『土生
 「土生

 『羽生
 「羽生

 『竜蛇(ナーガ)信仰
 「竜蛇(ナーガ)信仰

 『海人族
 「海人族

 『豊玉姫
 「豊玉姫

 『三輪山伝説
 「三輪山伝説

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2012年11月22日木曜日

平安朝の支配者は邪馬壹国系



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録17:28頁

 《平安朝の支配者は邪馬壹国系
 「平安朝の支配者は邪馬壹国系

 播磨とその隣接地名を分析して、

 倭国側と邪馬壹国側の子孫がそれぞれ移動して、

 後世には隣りあった地域に住むようになったことが分かったが、

 それでもまだ、

 神戸や宝塚、川西を含んでいた川辺郡が、

 但馬、丹波といった北部地域に比べて、

 暖かくてよい環境を占めているのはなぜか?と考える必要が残っている。

 このことは何を記録しているのか。

 河邊=コウナベだから当て字を変えると

 「高国部(コウナベ)」。

 これは南海の高族と高句麗とに属した人々である。

 そして位宮は、まさにその両方の王だった。

 狗奴国は沖縄語の高(ク)之国で

 太古の「高麗人(カリエン)」以来の南海の支配者高氏。

 彼らは併せて高句麗の支配者でもあったのだから、

 この状態は後世の日本国の発展移動に伴い、

 先発の倭国に強引に割り込んだ痕跡なのだ。

 後世という証拠はまだある。

 それは播磨国の首都・姫路だ。

 これは姫児と書くと姫木との関係が見えて、

 一層、巴利国らしくなるが、

 姫木(ヒメコ)はそのまま卑弥呼(ヒメコ)と読めるのに対し、

 姫路(ヒメジ)はどんなにしても卑弥呼(ヒメコ)とは読めないし、

 位宮=山幸の伝承もここには全然ない。

 またより後世にこの地域の国々がどう扱われていたかも問題だ。

 平安時代の状態を『倭名類聚鈔』で見ると、

 摂津は「国郡部」筆頭の第五十二「畿内国」に入れてあるが、

 播磨国は第五十七の「山陽国」にしか入っていない。

 明らかに支配者は倭人側ではなく邪馬壹国側である。

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2012年11月21日水曜日

播磨はなぜ、旁国の巴利国ではないか



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録17:27頁

 《播磨はなぜ、旁国の巴利国ではないか
 「播磨はなぜ、旁国の巴利国ではないか

 その摂津の国の西端は川辺(かわべ)郡であることに注意がいる。

 なぜなら今は発音が少し違うが、

 全く同じ文字の川辺(かわなべ)郡がやはり鹿児島県にあるからである。

 『倭名類聚鈔』を見ると、双方とも「河邊郡」で、

 発音も「加波乃倍=カハノベ」と同じ仮名がふってあるから、

 全く同じ地名だったことがわかる。

 河野をコウノと発音することを考えると、

 この河邊は「コウベ」とも発音できるから、

 古代には今の神戸市域も、この河邊郡の一部だった可能性が高い。

 だが問題は鹿児島県の河邊郡は

 卑弥呼女王国に属さない薩摩=壹国(サツマ)の中でも、

 特に旁国に入っていない地域だったのに対し、

 巴利国は大隅にあって卑弥呼政権の首都だった国だという点である。

 この全く相いれなかった2国が隣接して移動してきていることと、

 南九州本土にあった上位の河邊郡が、

 南海の離島の西南瑞の地域にすぎない

 下位の瀬戸内人の国=摂津の中の、

 その一部としてしか扱われていない逆転現象が起こっている。

 こうしたことは巴利国が邪馬壹国のものになり、
 
 「離島人十薩摩人」の勢力が

 卑弥呼系の人々より強くなった卑弥呼政権敗北後でないと起こらないから、

 これらの国々の人々が移住してきたのは、

 邪馬壹国が誕生した後のことだとはっきりわかる。

 播磨は巴利国人の移住先ではあるが、

 卑弥呼時代の旁国・巴利国では絶対にない、

 ということの動かない証拠なのである。

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2012年11月20日火曜日

播磨とセットになって移動した摂津



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録17:26頁

 《播磨とセットになって移動した摂津
 「播磨とセットになって移動した摂津

 では、そうした移動拡大は、

 いつ、どういう状況で行われたのか?。

 次はこの疑問に答えなければならない。

 旁国の問題はそこまで追及して始めて史実を復元できるのであり、

 それは私たちの言語復原史学なら可能である。

 それを、また巴利国を使って見てみよう。

 兵庫県の南部をみると西半分だけが

 播唐=巴利国?で東半分は摂津である。

 摂津もどこかからの移住者の国であろうか?。

 答えはやはり「セッツ」という、その名の発音にある。

 この発音にごく近い発音の名は、

 摂津が南面している海についている。

 「瀬戸」である。

 「津」は港のことだから、

 この地域の海岸をみると、その全域が砂浜で、

 古代にはどこでも船をつけられる「津の国」だった。

 「瀬戸津=セトツ」だが、それをセッツと発音するのは、

 大隅・薩摩などの南九州語の特徴である。

 すると命名者は巴利国人だったのか?。

 瀬戸の海は今、

 「瀬戸内海」とか「瀬戸内」とか呼ばれている。

 そこは中国地方と四国とに挟まれて、

 いかにも「瀬戸内の海」という感じがするが、

 実はこれもまた鹿児島県の一部から移動してきたままの名前なのである。

 その発祥地は奄美大島本島の西南端にある瀬戸内町である。

 これで巴利国人だけでなく、

 卑弥呼当時の投馬国人だった瀬戸内人も、

 近畿まで一緒に移住してきたことがわかるが、

 それでお終いではない。

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2012年11月19日月曜日

副葬品に鏡がある古墳は倭人の墓



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録17:25頁

 《副葬品に鏡がある古墳は倭人の墓
 「副葬品に鏡がある古墳は倭人の墓

 倭の名がウワイという仏教語名なのと同じく、

 新羅の名もシラバッガ教徒から生まれた。

 新羅のあった韓国慶州の円墳から鏡が出土しない謎もこれで晴れたし、

 「鏡が副葬されている古墳は倭人=仏教徒のもの」だったことも、

 絶対的な力で不動の結論になった。

 鏡を副葬している古墳の四国・中国以東への分布は、

 卑弥呼政権が位宮らに国土を奪われた後、

 その残党である「女王制仏教徒国家の国民=倭人」が、

 宮崎県=日向に倭女(ウワイ)王国政権を移したあと、

 南九州から北へ東へと拡大していった動かない証拠なのだ。

 それが仮に神武天皇東征によるとする在来の考え通りだったのなら、

 古墳時代は4世紀からでなく、

 もっと早い時代、

 『日本書紀』が書く紀元前660年はムリでも、

 せめそ帥升王(スサノオ)のいた1世紀初めから奈良に、

 鏡を副葬した古墳群が、

 宮崎県の西都之原ていどには造られていなければならないが、

 現実には現在の、まだ怪しい考古学者の時代判断でも、

 最大限までさかのぼっても3世紀後半以前にできたものは、

 全然存在しないし痕跡すらない。

 鏡を副葬した古墳のない時代の奈良には倭人(うわい)はいない。

 そこは雄略天皇からやっと倭国の中にはいり、

 推古・皇極・斉明といったアスカ仏教女帝時代へと続く。

 アスカとは、「アショカ王の都」という名であり、

 そこに残る当時の遺物は全て仏教遺物なのである。

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2012年11月18日日曜日

卑弥呼仏教を排斥する教義 シラバッガ



 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録17:23~24頁

 《卑弥呼仏教を排斥する教義 シラバッガ
 「卑弥呼仏教を排斥する教義 シラバッガ

 それでは、

 日本列島の西半分と朝鮮半島に、

 4~5世紀を暗黒に塗り潰すような、

 そんな悲惨で深刻な侵略戦時代を生み出し、

 さらに大化大戦と壬申革命を生み出したものは、

 一体、何だったのであろう?。

 それが卑弥呼の思想と政治の基本だった仏教と、

 位宮のシンドゥ教との対立による宗教戦争に始まったことは、

 ほぼ理解できているが、

 その対立の根拠が壹與を始祖王・赫居世とする新羅を生み出した教義に、

 戒律として明確に書かれているのである。

 その宗教とはインド名「 Silavagga シラバッガ」という戒律に従う、

 シンドゥ教の一派で、

 パーリ語で書かれた『梵網(ぼんもう)経』等にその教義が載っているが、

 「太陽神」

 「シュリ=吉祥天」

 「幸福の女神」を

 崇拝することを絶対に禁じている。

 その戒品(かいぼん)はその上

 「鏡、巫女、神託」まで厳禁している。

 ご覧の通り禁じられた全てが、卑弥呼の鬼道を敵としている。

 太陽は天照大神。

 シュリは卑弥呼の故郷・沖縄の古都・首里と同じ名。

 幸福の女神は観世音菩薩。

 鏡は卑弥呼の好物。

 巫女は尼=女王制。

 神託は倭迹迹百襲姫と神功皇后の特殊能力だ。

 まさに卑弥呼を排斥するために作ったように見えるが、

 それは当然でシラバッガは卑弥呼の宗教である原始仏教、

 ソナカが日本列島まで伝えたアショカ仏教そのものを、

 敵視していたのである。

 でもどうしてそんなインドの宗教が日本列島に伝わったのであろうか?。

 インドではソナカの母国マガダ国に栄えたマウリヤ王朝が、

 紀元前180年代にプシヤミトラに滅ぼされてシュンガ王朝が生まれたが、

 この名も「駿河=シュンガ=するが」という国名で日本に残っていて、

 インドからの移住者が古代から次々にやってきていたことを立証しいる。

 でもどうしてインドから人々が大量に、やって来ていたのであろう?。

 マウリヤ王朝滅亡後、

 バクトリヤ地方の

 ギリシャ人、

 サカ人、

 パルチア人の諸王が続々とインドを侵略分割し、

 紀元後25年、

 大月氏の王・クジュラ(鯨)・カドフイセスが、

 北西インドに侵入してクシャン王朝を建て、

 息子のウエマ(上間)・カドフイセスが大帝国化したが、

 小月氏の王・カニシカがさらに侵入してその大帝国を奪った。

 この間、難民が四方へ流出し続けたのである。

 このカニシカ王の金貨には仏像が描かれ、

 ギリシャ文字で「ポド=仏陀」と書かれている。

 当時のインド文化が日本列島はおろか、

 シベリア東端のカムチャツカ半島まで分布したことは、

 インドのシャーマニズム=沙門教が今も栄え、

 地名まで[マガダン州= KOH・Magadan ]と、

 マガダ国の名残をはっきり止どめていることで容易に納得できる。

 ユーロは今もヨーロツパの略称だが、

 『魏書東夷章』は、

 悒婁(ユーロ)人のギリシャ人そのものの裸体生活や皮服や穴居などで、

 ギリシャ人やサカ人らが東アジアに住んでいたことを記録し、

 また例の帯方郡使・張政も、

 その役職は郡の塞曹橡史(サカそうえんし)=塞(サカ)人部長であり。

 来た所も伊都すなわち今の佐賀(サカ)で、

 言葉が通じたからこそ、

 あんなに詳しく取材できたのである。

 『Silavagga シラバッガ
 「Silavagga シラバッガ

 『シンドゥ教
 「シンドゥ教

 『パーリ語
 「パーリ語

 『梵網経
 「梵網経

 『マウリヤ王朝
 「マウリヤ王朝

 『アショカ王
 「アショカ王

 『アショカ仏教
 「アショカ仏教

 『シュンガ王朝
 「シュンガ王朝

 『プシヤミトラ
 「プシヤミトラ

 『マウリヤ王朝滅亡
 「マウリヤ王朝滅亡

 『バクトリヤ地方
 「バクトリヤ地方

 『サカ人
 「サカ人

 『パルチア人
 「パルチア人

 『大月氏
 「大月氏

 『クジュラ・カドフイセス
 「クジュラ・カドフイセス

 『クシャン王朝
 「クシャン王朝

 『ウエマ・カドフイセス
 「ウエマ・カドフイセス

 『小月氏
 「小月氏

 『カニシカ王
 「カニシカ王

 『カムチャツカ半島
 「カムチャツカ半島

 『沙門教
 「沙門教

 『マガダン州= KOH・Magadan
 「マガダン州= KOH・Magadan

 『悒婁人
 「悒婁人

 『塞曹橡史
 「塞曹橡史

 『塞人
 「塞人

 『マガダ国
 「マガダ国


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