2015年6月20日土曜日

祭壇はあっても宮殿はない

 『浦和レッズレディース』
 『ひねもす至福の時』
 『誕生日の花と花ことば』
 『湘南ベルマーレ』
 title="『明星院・広島県歴史&地名他』">『明星院・広島県歴史&地名他』
 『広島・明星院』
 『広島・明星院』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》
 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 歴史学講座『創世』歴史研究家「小嶋 秋彦」:2013/12/19

 倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」

 『祭壇はあっても宮殿はない』

 ※出典:「吉野ヶ里弥生集落の変遷

 吉野ヶ里遺跡は、弥生時代の前期~後期までを通じて、

 ムラからクニの中心集落-みやこ-へと発展していく過程が

 明らかになった遺跡です。

 「弥生時代前期の集落」

 H11年(1999)の発掘で、

 遺跡南端の丘陵上において

 吉野ヶ里遺跡最古の環壕らしい跡の一部が発見され、

 縄文時代晩期の水田農耕の伝来からまもなく、
 
 周辺の小規模農村の上に立つ環壕(※2)を巡らせた

 吉野ヶ里の草分け的な集落が形成された可能性が出てきました。

 この集落は、弥生時代前期に2.5ha規模の環壕集落へと発展し、

 環壕跡内部からは、

 大量の土器や石器、有明海産のカキ・アカニシ・テングニシ・

 サルボウなど多数の貝殻や、

 イヌ・シカ・イノシシ類等の獣骨とともに、

 青銅器鋳造に用いた鞴(ふいご)の羽口や

 取り瓶などが出土しました。

 弥生時代前期のうちに、青銅器鋳造が始まったと考えられます。

 「弥生時代前期の集落」

 青銅器造具

 ▲青銅器造具 土器片

 ▲土器片 ブタ?の骨

 ▲ブタ?の骨 獣骨

 ▲獣骨

 「弥生時代中期の集落」

 弥生時代中期には南部の丘陵をすっぽり囲む

 推定20ha規模以上の環壕集落へと発展したと考えられています。

 内部では、多くの竪穴建物跡や穴倉(貯蔵穴)跡が発掘されており、

 居住域と倉庫域が区別されていたとも判明しました。

 また、環壕跡内部からは、大量の土器や石器が出土し、

 低地からは外洋航行船を模したと思われる

 船形木製品等が出土しています。

 また、竪穴建物跡等からは

 青銅製の耳飾り(もしくは指輪)2点(一対)や、

 数点の朝鮮系無文土器(片)も出土しました。

 「弥生時代中期の集落」

 木製の容器類

 ▲木製の容器類 木製の農具

 ▲木製の農具 木製の祭祀具

 ▲木製の祭祀具

 「弥生時代後期の集落」

 弥生時代後期になると、集落は北方へと規模を拡大して、

 ついには40haを超す国内最大規模の環壕集落へと発展します。

 内部には物見櫓を備え、

 大型の祭殿をもつ首長の居住や祭祀の場と考えられる北内郭や、

 高い階層の人々の居住区と考えられる南内郭等、

 内環壕によって囲まれた空間が設けられ、

 西方には、吉野ヶ里のクニの物資を集積し、

 市の可能性もある高床倉庫群が設けられました。

 環壕、城柵、物見櫓等の防御施設で堅固に守られた内部に

 多くの人々が集まり住み、

 その祭政の中枢である南内郭・北内郭が存在し、

 祭壇など祭祀の場を備え、

 青銅器や鉄器、木器、絹布や大麻布などの手工業生産や、

 各地の手工業産品や人々が集う交易の市が推定され、

 まさに弥生都市とも呼べるような

 クニの中心集落へと発展した姿を見ることが出来ます。

 吉野ヶ里歴史公園は、

 「弥生時代後期後半(紀元3世紀頃)」を

 復元整備対象時期としています。

 大切な遺構を壊さず土で保護した上に、

 弥生時代後期後半に同時期に建てられていたと考えられる建物を、

 当時あった場所の真上に復元整備しており、

 この地が最も栄えたクニの姿を体感することができます。

 「弥生時代後期の集落」

 南内郭

 ▲南内郭 北内郭

 ▲北内郭 北墳丘墓

 ▲北墳丘墓

 『弥生時代の吉野ヶ里-集落の誕生から終焉まで-』

 ※出典:佐賀県教育委員会編2008転載

 吉野ヶ里遺跡では「環壕」の「壕」は

 さんずいの「濠」と区別して標記される。

 これまでの調査から

 水が張られていた痕跡が認められないためである。


 ※出典:「吉野ヶ里遺跡の紹介

 「南内郭 ~王や支配者層が住んでいた場所~」

 吉野ヶ里が最盛期を迎えた頃、吉野ヶ里の集落をはじめ、

 周りのムラを治めていた王やリーダー層の人々が

 住んでいた場所と考えられています。

 周囲を環壕と城柵で囲まれ、

 敵を見張ると同時に吉野ヶ里集落の権威を示す

 シンボル的役割を持っていた物見櫓と考えられる

 建物跡が見つかっていること、

 人々が住む竪穴住居が中心であること、

 当時としては極めて貴重な一部の有力者しか

 持つことができなかったと言われている

 鉄製品が数多く見つかっていることなどから、

 このように考えられます。

 「南内郭の居住者達の性格」

 南内郭の居住者達は祭司者的性格を持ち、

 かつ政治・行政を司った者たちであったと想定されます。

 南内郭の近辺からは青銅器鋳型が発見されており、

 青銅器や玉などの祭具の制作や調達を

 担っていた可能性が考えられます。また、

 最高政治権者(王)は祭司者の統括者としての役割も

 担っていたと考えられます。

 「北内郭 ~まつりごとの場所~」

 吉野ヶ里集落だけでなく、

 吉野ヶ里を中心とするクニ全体にとって

 最も重要な場所であったと考えられています。

 田植えや稲刈りの日取りを決めたり、

 季節ごとのお祭りの日を決めたり、

 また大きな「市」を開く日取りを決めるなど、

 吉野ヶ里を中心とするクニ全体の重要な物事についての

 儀礼的な話し合いと祖先への祀りが行われていた場所と

 考えられています。

 また当時は、重要な物事が話し合いでは決まらない時には

 最高司祭者

 (祖先・神の声を聞くことができる特殊な能力を持った人)に

 祖先の声を聞いてもらい、

 その声に従って決定していったと考えられています。

 「北墳丘墓 ~歴代の王の墓~」

 吉野ヶ里集落の歴代の王が埋葬されている

 特別なお墓と考えられています。

 このお墓は人工的に造られた丘で、

 違う種類の土を何層にも積み重ね、

 しっかりと突き固められて造られており、

 とても丈夫な構造になっています。

 中からは14基の甕棺が見つかり、

 ガラス製の管玉や有柄把頭飾銅剣が

 一緒に収められているものもありました。

 このお墓は弥生時代の中頃、紀元前1世紀のものですが、

 その後はお墓としては使われなくなり、

 その代わり祖先の霊が眠る場所として

 人々から大切にされていたようです。

 「甕棺墓列 ~一般の人々の墓地~」

 甕棺[かめかん]とは北部九州に特有の棺のことです。

 大型の素焼きの土器に亡くなった人の手足を折り曲げて入れ、

 土の中に埋める埋葬方法で、弥生時代中頃のおよそ200年の間、

 盛んに使われていたようです。

 吉野ヶ里では丘のいろいろな場所にまとまって埋葬されており、

 想定では15,000基を超える数が埋められていると考えられます。

 中でも、墳丘墓の北側には、

 真ん中に道

 (お参りするための道であるとも、

  左右に埋められている人々の身分の違いを表すための

  区別の線とも考えられている)が設けられていて、

 その両側に全部で2,000基を超す甕棺が長さ600mにわたって

 整然と並べられています。亡くなった人に対する

 当時の人々の想いを偲ぶことができます。

 「中のムラ ~祭り・政治・儀礼などの道具を作る場所~」

 吉野ヶ里の最も重要な場所である北内郭で行われる

 祭りや儀式、政事に使ういろいろなものを神に仕える

 司祭者たちが作っていた場所と考えられています。

 神に捧げるお酒を造ったり、蚕を飼って絹糸を紡ぎ、

 絹の織物を作ったり、

 さらには祭りに使う道具なども作られていたと考えられています。

 なお、現地にはありませんが、

 こうした作業に携わる司祭者たちが住んでいた住居も

 この近くにあったものと考えられます。

 「倉と市 ~倉庫群、市も開かれていた~」

 海外との交易品や日本各地のクニグニの特産品などが集まり、

 盛大な市が開かれたり、

 市で取引される品々が保管されていたと考えられる

 倉庫群などが集まった、

 吉野ヶ里を支える重要な場所であると考えられています。

 レンガなどに描かれた古代中国の市の様子と

 よく似た構造をしており、

 また当時の交易の重要な交通手段と考えられている

 「舟」が利用できる大きな川がすぐ近くを流れていたこと、

 さらにはこの地域全体が大きな壕で厳重に

 囲まれていることなどが、こうした考え方の基になっています。

 西方倉庫群は平成11年度の調査で

 大きく四郡に分かれるさらに

 多くの高床倉庫群や竪穴建物が発見され、その配置などから、

 現在のところ具体的な遺構は指摘できませんが、

 「クニ」の倉、「廷閣」としての機能の他に

 『魏志』倭人伝にみえる「市」的な施設空間が

 存在した可能性があります。

 「南のムラ ~一般の人々の居住地~」

 弥生時代の吉野ヶ里集落の一般の人々が

 住んでいた地域と考えられています。

 北内郭や南内郭と違い、

 この区域を囲むような壕などの特別な施設がないこと、

 竪穴住居3~4棟に対し共同の高床倉庫1棟が付くという、

 日本全国で見つかっている一般的な集落のあり方と

 良く似ていること、

 北が上位で南が下位という古代中国の考え方に

 影響を受けて作られていると見られる吉野ヶ里集落全体の中で

 一番南に位置していること、

 などがこうした考え方の基になっています。


 ≪参考1≫

  倭人伝が記す「会同〔集会〕と天安河の「神集い」①

 ※出典:『日本創世記』著者「小嶋秋彦」:200~201頁

 ≪集会〔會同〕≫

  倭人伝を注意深く読むと倭人及びその社会の性格がみえてくる。

 まず「風俗不淫」とある。

 これを東洋文庫は「倭人の風俗は規律正しい」と読み下している。

 確かに大漢和辞典が「淫」字の語義として「みだれる、みだす」と

 上げているので、その否定として「みだれない」となり、

 その品性が公正であると説いていると理解できる。

 また「婦人不淫不妬不盗」とある。

 こちらの「淫」は性的な品行をいい

 「婦人はみだらでなく嫉妬もしない」との意味だが、

 「不妬」はあまり信じられない。

 重要なのは「不盗」とある記述で「盗難がない」と理解される。

 この「品行公正」「不盗」は完全でないにしても現代20世紀まで

 日本人が公明正大との社会通念として体現してきた気風であった。

 21世紀に入った今日、そのような風潮は危機に瀕している。

  更に重要な記述がある。

 「其會同座起父子男女無別人性嗜酒」と

 述べられていることである。

 紀元前後には倭では社会習慣として

 「集会〔會同〕」が行われていたのである。

 本書第2章(9)の「(b)弥奴国」で

 吉野ヶ里遺跡には祭壇と大きな建屋はあっても、

 それは「王宮」ではないと説明したように、

 国々は住民による会合を行っていて

 大きな建屋はそのためのものであったとみられる。

 「会同」とは現代中国でも常用している「共同する」との用語で、

 倭人伝の文面からすると、それは「集会」である。

 東洋文庫はそこを

 「集会では座席の順序や立ちふるまいに

  父子や男女による区別はない」と読み下している。

 この部分の解釈については、

 倭は未だ未熟(未開)な社会だから

 出鱈目に座ったり振る舞っただけでだとする向きが

 これまでの見方としてあるが、それは妥当としない。

 その一般生活の習慣として、

 「大人所敬〔大人(有力者)に対して尊敬を示す法〕」や

 「下戸興大人相遥道路~

  〔下戸(下級の者)が大人と道で出会った場合〕」の

 作法との説明があり、

 この「集会」においての仕方は全く独特であり、
 
 極めて特筆に値する。

 そこに指摘されている内容は「男女の差別がない」

 「父子といった社会的序列もない」という。

 座る者〔参加者〕は一切「平等」という仕様である。


 ≪参考2≫

 『吉野ヶ里遺跡』

 三韓が倭国の拡大発展から生まれた地方自治体だったことは、

 ほぼご納得戴けたと思うが、それがどんな風に進行したか、

 そして魏の楽浪・帯方2郡ができるとどうなったか、

 という記録が『魏書・韓章』には、

 よくわかるように記録されている。

 短く要点だけお話ししよう。

 「桓霊(後漢の2帝)の末(170~180年代)、

  韓・濊(ワイ)は強盛。

  郡県は制御できず、多くの民が韓に流入した。

  建安(~220年)中、

  公孫康は屯有(トンユウ)県以由の荒地を分けて帯方郡にして、

  公孫摸と張敞(ショウ)を派遣、

  遺民を集めて兵を興し韓・濊(ワイ)を伐(う)つ、

   ……倭・韓はついに帯方に属す」。       

 214年に靺鞨(マカラ)が

 南鮮を荒らしたという記事はこのことである。

 そして公孫たちはまだ後漢の臣下で帯方郡も後湊の領土である。

 その時代には倭国も三韓も、その帯方郡の支配下にあったと、

 ここに明記してあるのである。

 後漢の衰えとともに倭人は半島へ勢力を拡げて行った。

 しかし公孫軍の反撃に敗れて九州までが

 「帯方郡」の中に入れられてしまった。

 それが後漢滅亡後、公孫氏の私物化していた。

 卑弥呼時代の倭人連邦は公孫氏の勢力下にあったのだ。

 『魏書東夷傳倭人章』では三国時代の歴史以外は省略されて

 「倭国乱れ、相攻伐 歴年」としか書いてないが、

 『後漢書』はそれを「桓霊の間 倭国大乱」と明記している。

 卑弥呼が女王に共立された当時は、

 公孫氏の帯方、

 のちの『燕(エン)』国の支配下にあったのである。

 その公孫氏の『燕』もこのあとに書くように

 景初2年、魏に奇襲されて滅んでしまった。

 燕は「エン」、中国訛りでは「エヌ」。

 これに日本で当て字すると「吉野(エヌ)」。

 いま邪馬台国の遺跡だと称している佐賀県吉野ガ里(り)は、

 その町村表示が「里(り)」という中国~半島様式で、

 邪馬壹国や旁国の「国」でないことはもちろん、

 ラマヤナの倭国様式でもないから、

 間違いなく「燕」に関連のある漢人または半島人による遺跡で、

 公孫氏時代の役所所在地の跡か、

 あるいは燕の難民居住地遺跡かのどちらかである。

 そこから出土した家屋遺構も小さな村落ていどのもので、

 大屋が数万戸もあった女王国の首都の痕跡ではない。

 そこは『魏書東夷傳倭人章』の地理条件にも全く合わないし、

 また旁国との位置関係も全然一致するものがない。

 ただ1つ確実な遺物はその地名だが、

 それが「燕」を指し、

 中国~半島様式の「里(り)」という村落名を

 今だに名乗っているのは、

 そこが特殊な歴史をもつ外人村落だったから、

 千数百年、手付かずで

 「吉野」と「里」が残されたのだと考えるしかない。

 ところがこの吉野ガ里に至っては、

 そうした知的根拠は全くない。

 ※出典:加治木義博「大学講義録34:3・4頁

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

0 件のコメント:

コメントを投稿