2012年4月10日火曜日

近畿を支配していた蘇我氏天皇家



 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録09:27~28頁

 《近畿を支配していた蘇我氏天皇家
 「近畿を支配していた蘇我氏天皇家

 この、発音がヤマトに定着したことは、

 日本人のルーツを強く立証する重要なキーである。

 それは結局、

 近畿の<先住民政権だったカリエン系の人たち>の勢力が

 当時もなお強かったことを物語っている。

 その<カリエン系>の人たちとは、

 いま話した<武内宿祢の子孫=蘇我氏>だったことが、

 『日本書紀』中の、

 フィクションにすぎない大化改新物語をみても、はっきりしている。

 その大化改新のヤマ場である大極殿の場面で<蘇我入鹿>が殺されたとき、

 <古人の大兄皇子>が家に走り戻って、家人に言ったと書かれている次の言葉が、

 それを強力に立証する。

 「韓人が、鞍作の臣(おみ)を殺した」。

 この韓人は中の大兄皇子で新羅王・金春秋、

 後の天智天皇を指しているのだから彼を韓人と呼ぶのは、

 ごく当然のことである。

 <鞍作>は「クラ=高麗」「作り=造(みやつこ=総督)」。

 中央政府からみれば連邦内の国々の王は

 「国造=地方長官」に過ぎなかったから、

 <高句麗政権>に対する連邦政府側の呼び名。

 しかしこの作品で<蘇我入鹿>にされた人物の本当のモデルは、

 『三国史記』の高句麗本紀では高句麗王・建武(栄留王)を

 殺した逆臣、高句麗の最有力者・蓋蘇文で、

 『日本書紀』では

 彼のことを「伊梨(イリ)・何須弥(カスミ)」と呼んでいるから、

 「蘇蓋+入鹿津見=蘇我入鹿〕になる。

 以上のすべてが<高句麗>とは<蘇我>を指しているから、

 このことからでも<蘇我氏がカリエン系の当時の大勢力者>だったことがわかる。

 しかし、なぜ<高句麗人の蘇我氏>が近畿の有力者だったのだろう?。

 それは<欽明天皇>から<孝徳天皇>までの名乗りが教えてくれる。

 同じ時期の高句麗王の名と比較してみてほしい。

 代  天皇名  名乗り     高句麗王名 共通点

 29 欽明天皇 天国排 開広庭 広開土王  土も庭も領土のことで、同じ名乗り

 30 敏達天皇 渟中倉 太珠敷 長寿王   太珠も巨進も「フト・タマ」

 31 用明天皇 橘豊日     文咨明王  文=モン=モ、苔=シ=チ、モチ=用

 <日本>と<高句麗>に同時代に、

 3代つづけて同じ名乗りの天皇と王がいたなどと考えることはできない。

 名乗りというものは、その領土名の主要なものを羅列したものである。

 仮にこれらの天皇と王が別人だったとすれば、

 彼らは同じ領土の持ち主だったことになる。

 主張しあうだけならともかく、

 そうした事情の説明なしで同一の領土を3代にわたってもっていたとは考えられないから、

 この3人の天皇と高句麗王は同一人なのである。

 「高句麗王の名乗りの地域」 

 29 広開土王  広島・安芸・土佐王

 30 長寿王   長州王

 31 文咨明王  門司・安芸王

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