2013年2月19日火曜日
『観音経』中国布教時期混乱の原因
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録20:27頁
《『観音経』中国布教時期混乱の原因》
「『観音経』中国布教時期混乱の原因」
掖邪狗は張政を帯方郡まで送った後、
洛陽の魏政府に生口30人を贈っているが、
生口は捕虜ばかりとは限らない。
知識人や僧侶もいていい。
中国政権が西晋に変わったとき、
彼が当然また親善使節として謝名崛多を伴って行き、
観世音菩薩について教え、
謝名を残して掖邪狗だけ帰国したとすれば、
日本の記録は二人の業績とし、
中国では謝名崛多=若羅厳一人の業績として
彼の名だけしか記録に残さなかったとしても
不思義はない。
また掖邪狗が教えた業績は観音だけだが、
謝名崛多はそれ以後に幅広く経典を訳した可能性があるから、
それに埋没して細部の記録は残らなかったとしても、
これまた不思義ではない。
では佐和氏のいう、
西紀五七○年頃の、
耶舎崛多(ヤジャクッタ)による十一面観音経翻訳はどういうことなのか?。
これにも納得のいく答えが見つかった。
馮承(ヒョウ)承鈞の『歴代求法翻経録』をさらに見ていくと、
「元魏北齋北周録」に、
麻伽陀 Magadha 国の禅師「闍那耶舎 Jnanayasas 」が、
弟子の「闍那崛多 Jnanagutta 」らと共に561年から578年の間に長安で
『定意天子経六巻』を訳したあと実歴( Turkut は北京付近)で死んだ」という記事がある。
この闍那邪舎はジナナヤサスへの当て字だが、
闍那耶舎という漢字だけを見ると、
「ジャナ・ヤジャ」と読んでしまう。
おまけに弟子まで「ジャナグッタ」と読めるので、
これと混同したのである。
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