2013年2月12日火曜日
『魏略』が書かれた時期とその前後の中国仏教史
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録20:20頁
《『魏略』が書かれた時期とその前後の中国仏教史》
「『魏略』が書かれた時期とその前後の中国仏教史」
伊藤徳男氏の
「魏略の製作年代に就いて(『歴史学研究』第四巻第一号、昭和10年5月)」によると
『魏略』を魚豢が書いたのは、
晋の武帝の太康年間(280年~289年)というのが、最も合理的だ。
内藤虎次郎氏などは、
陳寿は『魏略』の文章を殆どそのまま取って用いているというほどで、
上記のように魚豢は卑弥呼や壹與と同時代に生き、
事件記録をはとんど時間を置かずに採録したのだから、
個々の報告が全て生々しく、
後世になってから文献だけに頼って編集したものより、
はるかに誤りが少なく真相を伝えているとみていい。
なぜ私がこうして『魏略』の記事を強く重視するのかというと、
中国でも卑弥呼当時には、
仏教についてすでにかなり知られていたという事実を前提にしないと、
帯方郡使が卑弥呼の宗教を仏教と書かずに『鬼道』と書いたことへの考察が甘く、
片手落ちになるからである。
『鬼道』と書いた郡使には、
当時中国で知られていた彼の知る仏教と、
卑弥呼の仏教とは同じでなく別物のように見えたので、
仏教とは書けなかったという点が重要なのである。
当時中国へ伝わった仏教の伝播経路は西域からの陸路で、
その元はマガダ国から北進してガンダーラやカシミールを教化し、
さらにカラコルム山脈を越えてタクラマカンの大砂漠に入った
「Majjhantika マッジャンチカ」布教団である。
東進してきたソナカ布教団の我が国までのコースに比べると距離は短いが、
その難路は屈強な男性僧でも大変なものだった。
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