2012年10月9日火曜日
五十は領地「イドン」への当て字
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録16:14頁
《五十は領地「イドン」への当て字》
「五十は領地「イドン」への当て字」
しかし、この彦五十狭芹彦の検討は、まだこれで終わりではない。
その名乗りはまだまだ多くの謎を解いてくれるからである。
彼が鹿児島人であることは、
その名乗りの領地が全て鹿児島県下にあった事実で疑いない。
とすれば彼の名乗りは全て鹿児島語で発音する必要がある。
鹿児島語では「十」をジューとは発音しない、「ヅ」と聞こえる。
だから「五十」は「イヅ」だったのである。
するとそれに合う地名が見つかる。
古代は助詞の「の」を省略して書かないが、
書いてなくても入れて発音する。
鹿児島の助詞の「の」は「ン」だから、
それを入れた「五十ン」は「イヅン」で「出水」である。
出水市は大口市の西隣り、やはり旁国のない空白域で、
かつて伊佐郡と出水郡とは隣接して薩摩北部を構成していた。
一帯が彼(彦五十狭芹彦)の所領であったことは間違いない。
このことは一つの名乗り彦五十狭芹彦が
伊佐と出水の二つの領地を表現しているとみると、
まるで手品のようだが、真相は逆なのだ。
古代には伊佐から出水までの地域は一つになっていて、
一つの地名しかなかったのだが、
後世それが様々に読まれてイヅンとイサとになり、
二つの地域に分裂して、
元は一つだったことがわからなくなってしまったとみると謎は残らない。
ではどちらが彼彼(彦五十狭芹彦)の名乗りを生んだ元の地名だったか?。
それもよくわかっている。
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