2012年10月23日火曜日
敗北した倭国政権の亡命先
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録16:29頁
《敗北した倭国政権の亡命先》
「敗北した倭国政権の亡命先」
しかし、それなら卑弥呼時代にも、
倭人はその道を通っていたはずだから、
今更、酒まで飲ませて
「巴利国へ行く女王国の入り口だ」などと認めさせる必要はない。
ところがそれが必要になったから、そんなことが実行されたのだ。
そんな必要が生まれた理由は卑弥呼政権の敗戦で、
情勢が一変したこと以外にない。
巴利国は邪馬壹国になり、
倭国政府の首都ではなくなってしまった。
どこかに新しい都を造る必要があったのである。
山を下った伊声耆は加久藤の王たちを招集して酒を飲ませた。
それは成功したか?。
その結果を記録している強力な遺物がこの真幸を含む一帯にある。
それは、えびの市になるまで、
そこは「京町」だったことである。
この古代にはタブーだった首都を意味する地名が残ることで、
都がここへ移ったことがわかる。
しかしそれなら「巴利国へ行く入り口」と、わざわざ呼ぶ必要はない。
京町へは真幸からだけでなく、どの方向からでも入れる。
そこが「巴利国へ行く入り口」になったのは、
さらに巴利国が遠くへ移動していたためである。
逃げた先は、険しい山路をよじ登る追跡困難な球磨だったのだろうか?。
これも地名の比較でわかる。
球磨はクマだから敵国「狗国(クマ)」だが、
宮崎県なら日向だから「日の国」。
これをマレー語で読むと「ハリ国(マ)」、
一見して巴利人がどこへ逃げたか分かる。
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