2012年10月25日木曜日
魏人は卑弥呼の冢を見た
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録16:31頁
《魏人は卑弥呼の冢を見た》
「魏人は卑弥呼の冢を見た」
『魏書倭人章』の「陸行一月」の話がでたついでに、
ここでお話しておく必要があると思うのは、
二人の帯方郡使が共に伊都国で駐(とど)まって伊都以南へは行かなかったのに、
卑弥呼の冢の大きさを「経百余歩」と、
なぜ魏の尺度で表現できたのか?という疑問である。
これも卑弥呼の死直後の事件をめぐる、
大きな謎の1つだから、是非、片付けておきたい。
他の部分では、
帯方郡から狗邪韓国までの旅程さえも、
すべて倭人里を使っているのに、
この冢のサイズだけ、
何故、わざわざ、魏の尺度で書いたのか?。
どう考えても奇妙なのだ。
答は、
帯方郡の正使である梯儁と張政の二人は
伊都国から南には行かなかったが、
それは魏人は一人も隼人まで行かなかったということではない。
高句麗が半ば滅び、
倭人と同族の辰韓王・臣濆沽(シホコ)が、
梯儁を派遣した太守・弓遵を殺した大紛争直後だ。
今なら大使に当たる郡使が、
供も連れずに一人で倭国へくるはずがない。
最小限、護衛と通訳が必要だし、
食事、洗濯、荷物担ぎと供の人数は膨れあがる。
その中の荷物担ぎなど手すきの幾人かが、
首都まで行ったのである。
その時、
張政は難升米に檄(げき)を渡して卑弥呼に善処を命じた。
その告諭と檄は難升米自身が卑弥呼に直接話し、
手渡さなければならない。
その難升米について同行した魏人が
八代から人吉~真幸を通って隼人まで行き、
冢のサイズも自分で計ったのである。
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