2012年10月21日日曜日
古事記の吉備津彦「えびの支配の記録」
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録16:27頁
《古事記の吉備津彦「えびの支配の記録」》
「古事記の吉備津彦「えびの支配の記録」」
しかし、今のえびの市は旁国・好古都国で卑弥呼の領土だった。
それが、
たとえ実弟だといっても彦五十狭芹彦の領地になるだろうか?。
なるとすればそれは卑弥呼の死後しかない。
それが正しいという傍証がえびの市にある。
それは馬関田と書いて「マガタ」と読む地名があることである。
この名は「曲田」と同じくソナカが運んできた国名、
聖なる祖国マガダ国への当て字の一つである。
だからその名は卑弥呼政権の聖地を意味する。
その命名者はもちろん仏教徒だし、
本来なら首都の巴利国にこそあるはずの地名である。
それが隼人になくて、遠く北に離れた旧・好古都国の跡地にある。
これだけの条件を考えると、
それは卑弥呼政権が敗れて、首都を脱出した人々が、
いったん海老野高原に逃れたあと新たに作った亡命政権の首都が、
ここ、えびの市だったということが完全にわかる。
これには、さらに傍証がある。
それは『記・紀』が記録している吉備津彦の行動である。
『古事記』孝霊記
「於 針間 氷河(ひょうが)之前 居 忌瓮 而 針間 為 道口 以 言向 和 吉備国=
針間から氷河之前に忌瓮(いむべ)を置いて言向けして、それで吉備国を和らげて、
針間の道の口にした」
当時の針間は巴利国だけで、
付近で氷河に合う地名はヒュウガ=日向。
巴利から運んだ酒を使って吉備人を説得して、
そこを巴利への道の口にしたというのだ。
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