2012年10月6日土曜日
新羅で後世まで使われた爾支とその正体
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録16:11頁
《新羅で後世まで使われた爾支とその正体》
「新羅で後世まで使われた爾支とその正体」
これに似た遺物から見てみよう。
同じ西の名をもつのは
沖縄の西表島と種子島の西之表市である。
文字は同じでも発音が違う。
西表は「イリオモテ」だが、
西之表は「ニシノオモテ」である。
この表=オモテは玄関口を意味する。
支配者たちが「イリ」「ニシ」という称号を、
名乗りの中にもっても不思議ではない。
古来、
一日本人はそうした方位名を地名にする習慣の持ち主だった。
国名に四神の色の名を使った
「青(オオ)=倭(オオ)=東、
白=新羅=西、
赤=水(アカ)=海神国(ポセイドン)=百済=南、
黒=高麗(クレ)・韓(カラ)=北」は、
色の名がギリシャ語の発音通りだから、
ギリシャ人の習慣だとわかるが、
爾支は実はインド語であって、単なる方位名だけではない。
応神天皇の都は「軽」という名だから、その宮城は「軽城(き)」。
すると、
その当て字の元になった発音は「カルキ」で、
その当て字が鹿児城(カルキ)→麑(ゲイ)城→鹿児島と変わった可能性が強い。
これはシンドゥ教の最高神ビシュヌーの武神としての異名「 kalki =カルキ」で、
応神天皇が武神=八幡大菩薩とされる謎を解くカギはこれ以外にはない。
このカルキは称号をもっていて「 Nishkalanka =ニシカランカ」という。
爾支・韓ン神(カン)と読めるが、
韓=カラも黒で北。
そしてこの名は「西の国=新羅」で王称として永く使われていた。
『三国史記』新羅本紀の3~18代までの王が皆
「尼師今=ニシキン=西君=西王=爾支」を名乗ったのである。
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