2012年10月19日金曜日
吉備津の名をもつ市と高原が現存
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録16:25頁
《吉備津の名をもつ市と高原が現存》
「吉備津の名をもつ市と高原が現存」
だが吉備津の候補地はこれだけではない。
吉松の北の宮崎県域にも、
さらなる有力な地名が厳存しているからだ。
そこは好古都国の跡、
元の加久藤(カッツ)で、
今の「えびの市」である。
「吉=え・備=び・津=の」だから、
ここは完全にえびの=吉備津なのである。
しかしそこが「えびの市」になったのは昭和45年12月のことで、
それまでの「えびの」は、市街地ではなく、
南に聳える霧島連峰の北西端に広がる高原の名だった。
大戦末期、
栗野国民学校の教員をしていた私(加治木義博)は、
冬の一日、町の東にある栗野岳に登り、
えびの高原へ行ってみた。
そこは枯れススキの草むらが点在する白っぽい禿げ山で、
凹みに淡緑色に澄みきった小池があり、
蒸気を噴き出す穴の周囲に、
硫黄臭いモヤが立ちこめているだけの、
人影も動物も、小鳥の影さえもない荒涼とした場所だった。
そんなところがなぜ、
『古事記』に特記された「吉備津」だったろうか?。
考えられ阜理由は一つしかない。
そこは卑弥呼の死後、
首都を追われた倭国の残党が、
命がけで逃げこんだ避難所だったのだ。
眼下に眼を移して見渡せば、
加久藤、吉松、菱刈、大口から、
はるか出水にかけて山間に点在する町々が、
およその位置を示す程度に並んでいて、
果ては茫漠と覆んでしまい、
南九州の規模を改めて思い、
かっての伊声耆の領土と勢力の大きさを実感したのだった。
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