2012年10月18日木曜日

伊佐の東に実在した吉備の遺跡



 『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録16:24頁

 《伊佐の東に実在した吉備の遺跡
 「伊佐の東に実在した吉備の遺跡

 しかしそんな『日本書紀』でも、

 正しく活用できさえすれば貴重な史実の宝庫ではある。

 そこに記録きれていた「吉備津彦」の名も、

 それを雄弁に立証する得難い記録の一つである。

 なぜならそれは、

 これまでに発掘できた真相を、さらに大きく拡大してくれたからなのだ。

 伊佐郡に隣接する東の地域は姶良郡で、もう薩摩ではなく大隅の北端である。

 そこに旁国の鬼奴国の遺跡・栗野町がある。

 そこが栗野という地名に変わったのは

 「鬼奴」の発音が「クイヌ」に変わった近世音時代のことで、

 3世紀には「 kiueg no キウェッ ノ」だった。

 これに当て字して「吉備(キヴェッ)の」国と書いたとすれば、

 伊声耆は郡境を越えて栗野まで支配していたということになり、

 彼が吉備津彦と呼ばれた理由もわかる。

 これをさらに立証してくれるのが栗野の北にある「吉松町」だ。

 立派に「吉」の頭文字をもっているし、

 「キマツ」と読むことにすれば吉備津により近くなる。

 それだけではなくて、

 その北には宮崎県の西端が細く横たわっていて、

 そのすぐ北はもう熊本県の人吉市だが、

 ここもまた間違いなく「吉」の字をもっている。

 そこは大学講義録15の地図でも

 「鬼国」だと決定した地域だが、吉と鬼の関係は変わらず、

 この辺りが吉備だった可能性はますます濃くなる。

 これで鬼奴国と鬼国がともに吉備を指す名だった事実がわかり、

 私(加治木義博)の旁国の位置解明が完全だったことが立証されている。

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