2012年10月3日水曜日
泄謨觚柄渠觚は伊声耆の弟か?
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録16:8頁
《泄謨觚柄渠觚は伊声耆の弟か?》
「泄謨觚柄渠觚は伊声耆の弟か?」
この彦五十狭芹彦は吉備津彦という別名をもっている。
これは「キビツヒコ」と読むと、
伊都国の副官名
「泄謨觚柄渠觚 ziad mak kwo piang gio kwo ジャマックォピャンギョクォ」を
後世の発音で「シモコピンホコ」と読んで
「下木備之日木」と当て字したものを、
さらに後世に『記・紀』編集者の誰かが、
「下吉備津彦」と書き替えた可能性がある。
この名乗りは『古事記』が吉備津日子の弟だと書く、
若日子建吉備津日子を吉備下道臣の祖だと注記してある、
その姓に「下吉備津彦」が合うので、
全然、架空の名乗りというわけではないが、
奇妙なことに『日本書紀』は、
吉備津彦にそんな弟がいたとはどこにも書いていない。
このことは重要な問題を解決するキーになるから、見逃してはならない。
なぜなら「泄謨觚柄渠觚」という官名は、
もうおわかりの通り、
卑弥呼政権時代のものではなくて、邪馬壹政権の国名である。
卑弥呼とは一応、切り離しておく必要がある。
またもう一つ可能性が考ええられる。
『古事記』は兄の大吉備津日子は「吉備上道臣」の祖だと書いている。
この「上」は聖徳太子を「上の宮」と呼んだのと同じく
「上=倭」だから上道=鬼道=仏教で卑弥呼の弟に相応しいが、
下=シモ=シバ=シンドゥ教で、位宮らの側を指す代名詞でもあるから、
これも兄弟というより、敵の名乗りだと考える必要がある。
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