2012年10月4日木曜日
泄謨觚柄渠觚は「邪馬津公 宮之城公」
『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
『Yahoo!天気・災害』
『出典』言語復原史学会・加治木義博大学講義録16:9頁
《泄謨觚柄渠觚は「邪馬津公 宮之城公」》
「泄謨觚柄渠觚は「邪馬津公 宮之城公」」
吉備を単なる地名と思いこんでいると
吉備上道臣と吉備下遺臣とは兄弟ぐらいにしか見えないが、
それが名乗りだと分かっていると、戦乱で地位が交替すると、
敵味方が同じ名乗りをもつのは当然で家系とは無関係なのに、
これを混同して学者ぶって姓氏のルーツは地名だなどと称する
「系図屋」という商売が我が国にはあるから、
騙されないように……。
すると大学講義録5で孝霊天皇は高麗天皇ということだとお話ししたほか、
大学講義録12でも弥奴国のところでお話しした通り、
高句麗王家の本拠は薩摩にあり、
宮之城がその首都だったから、
沖縄~大隅語を計算に入れて、
伊都国副官名
「泄謨觚柄渠觚 ziad mak kwo piang giok kwo ジャマックォピャンギョクォ」は、
「邪馬津公(ジャマックォーつ) 宮之城公(ビャンジョクオー)」という
鹿児島語への当て字だとみるほうが、はるかに合理的である。
連邦の首都・伊都国防衛軍の指揮権を、
母国・屋久島の津=港湾都市と
本国の首都・宮之城の支配者になった男王がもっていたのは当然なことで、
彼が「戦さの君=イッサンキン=軍君」と呼ばれた理由も、
これで明瞭にわかるし、
また彼が副官である理由も、
インド伝来のカースト(階級制度)で、
第一位はプラーフマー、(婆羅門=宗教王)が占め、
第二位をクシャトリア(軍君)が占やる原則通りだとわかるから、
位宮らがシンドゥ教徒であり、
伊都国の長官・爾支がその宗教王だったこともよくわかる。
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