2012年10月30日火曜日

景行天皇が体験した肉親相剋



 『特定非営利活動法人森を守る紙の会: NGO-SFP』事務局長:金原政敏
 『Yahoo!天気・災害』 

 『出典』言語復原史学会加治木義博大学講義録17:4頁

 《景行天皇が体験した肉親相剋
 「景行天皇が体験した肉親相剋

 それなら正しい系譜は、もう復元できないのだろうか?。

 『魏書倭人章』と『日本書紀』を総合すると、

 景行天皇は

 「載斯烏越 tsag sieg o giwat ターシオジワッ=大足忍代王=(大隅語)」と

 記録されている。

 彼は正始8年(247)に帯方に行ったから、

 正始4年(243)の

 卑弥呼の使者・掖邪狗=八尺入日子=八坂入彦とは、

 同時存在で、

 ともに皇族なのだから、本来はごく親しい人たちであり、

 互いに知らないはずのない間柄なのである。

 では何故?、

 『記・紀』は他人のような書き方をして、

 まるで弱者から娘を奪い取ったかのような記事になっているのか?。

 それは卑弥呼死後の掖邪狗の行動をみると理由がわかる。

 彼は壹與女王の命を受けて、

 帯方郡使・張政を帯方郡まで送り届けている。

 掖邪狗は明らかに位宮に加担したから、

 卑弥呼旧政権当時のままの重職にとどまっている。

 ところが

 景行天皇は政権が邪馬壹国に変わると名も出ない。

 敗者として姿を消したと見て、

 そして『記・紀』の景行天皇史を読んでみると、

 天皇は九州各地を、

 熊襲を始めとする敵と戦いながら転戦する。

 熊は高国(クマ)で狗国(クマ)、狗奴国の別名だから、

 彼は掖邪狗と違って

 邪馬壹国には屈服せず抵抗し続けたということになる。

 そしてついに要衝・宮之城を陥して

 八坂入媛を妻にしたというのが、

 その結婚の真相だったとわかる。

 こうして復元は可能なのだ。

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